その塩対応さえもホワイト社会の流儀にのっとって笑顔で優しく親しげに(あくまで形式的に)
年齢を重ねると、わざわざ鋭い感覚を使わなくても、人の「今この人はこの程度」というのが自然とわかるようになる。これは経験則として蓄積されたものであり、特に意識せずとも働くフィルターのようなものだ。
このような直感が働くと、相手がどの程度の視座や思考回路で物事を判断しているかが瞬時に見えてしまう。そして、それが一定の水準に達していない場合、こちらとしては「笑顔でまともに対応するのを見送る」以外に選択肢がなくなる。
誤解してほしくないのは、これは決して相手を蔑んだり見下したりしているわけではないということだ。子供を相手にするように、無理に高度な議論をふっかけても意味がないし、お互いにとって不毛な時間となる。それならば、適切な距離を取りつつ、最低限の礼儀を持って対応するのが合理的だ。
この選択は、限られた寿命を持つ身としての自衛策でもある。
あなたは「査定」の結果、塩対応される側ではないか?
塩対応を受けたとき、多くの人は「相手が自分の言いたいことをわかってくれなかった」と感じるかもしれない。しかし、それは本当に「わかっていない」からなのか?
実は、相手はすべてを理解した上で「わかっていないふりをしている」可能性はないだろうか?
つまり、あなたの言動を瞬時に査定し、「このレベルの人間と深く関わる価値はない」と判断された結果、塩対応されているのかもしれない。
このとき、あなたは相手に「もっとちゃんと向き合え」「私のことを見ろ」と求めるかもしれない。しかし、相手には相手の自由意思がある。あなたが相手に対して何かを強要する資格はない。
むしろ、あなたが相手の自由意思を侵害している可能性すらある。
「魅力」があれば手のひらは返る
人は、魅力や価値を感じたら、それまでどんなに冷たくしていた相手に対しても、あっさりと手のひらを返す生き物だ。
現状、あなたが冷たくあしらわれているとしたら、それは単純に「あなたにまだ相手が求める価値がない」からに過ぎない。
ここで、相手に「無理やり」自分を見てもらおうとするのは逆効果でしかない。たとえそれが成功したとして、結果的に何が生まれるだろうか?
あなた自身は「自分を認めてもらえた」と嬉しくなるかもしれない。しかし、相手にとってはどうだろうか?
強制的に時間を奪われ、不毛なやりとりを押し付けられることが、相手にとってどれほどの苦痛や損害になるのか、想像したことはあるだろうか?
そして、もしあなたが「相手の損害なんて知ったことか」と開き直るのであれば、ますます相手はあなたを遠ざけるだろう。
自分が変われば、世界も変わる
塩対応されたとき、「なぜ自分は査定の結果、この扱いを受けているのか?」と自問することは大切だ。
もし自分に魅力があれば、人は勝手に寄ってくる。手のひらを返す。
逆に、どれだけ相手に執着しても、魅力がなければ相手は変わらない。
結局のところ、すべては「自分が変わるかどうか」なのだ。