ブログ記事の要約:
スピリチュアルの本質は、金儲けやご利益追求とは無縁であり、現代のスピリチュアルは自己修養や人間関係の深化に重きを置いている。著者は、過去の詐欺的なスピリチュアルのイメージや他者からの偏見を本質ではないと警鐘を鳴らしつつ、スピリチュアルを通じて人間的な成長と満足感を得ていると語る。
**ポイント:**
1. 現代のスピリチュアルは金銭目的や詐欺とは無縁。
2. 実践を通じて人格的成長や自己肯定感が得られる。
3. 著者は偏見に苦しみながらも充実した人生を実感している。
挑戦的なタイトルかもしれませんが、率直な本音です。
これまで、特に20世紀にまで遡ると霊能者や占い師などスピリチュアルを謳う人といえば
「人を根拠のないデタラメな嘘の『霊障』などの言葉で騙して不安にさせ、それを救済するとこれまたうそぶいてご祈祷代などと称して大金をまきあげる詐欺師」
というネガティブなイメージがあったと思います。
その派生形として
「このセミナーに出た人だけに特別に教える、本当に効く『引き寄せの法則』であなたも億万長者に!」
といった、消費者の堕落した悪どい欲望をくすぐってカモにするという図式や、
「この教えを守って祈りとお布施を施した人は死後に救済され、多くの悪人が地獄に堕ちるとしても天国行きが保証される」
という抽象的なご利益で人の救済されたい願望に火をつける図式など、まぁいろいろありますわ。
(あれ?でも最後のはスピリチュアルというよりは王道の宗教が☜余計なトラブルとは無縁でいたいのでこのへんで止め)
そういえば、かつて人気だった『トリック』というドラマでは、上記で述べたような、まんま詐欺師!路線の嘘つきインチキ霊能者たちを主人公が見破って成敗する勧善懲悪モノでしたよね。
そして人は、「コイツならいじめてもいい」と“みんな”が認めたものであれば、ストレス解消のために意地悪でサディスティックな「いじめたい欲」あるいは「普段、なにかとつらい思いをしている自分の鬱憤を晴らす」行為としてボコボコにする。
それも悪気なく。
「ひどいことをするなよ」
なんて誰かからたしなめられようものなら
「えー?何言ってんだ?コイツは酷い人間だから何したっていいんだよ。悪い奴を懲らしめてるんだ。良いことをしてるんだよ。正義の鉄槌ってやつさ」
とかなんとか、なんとでも正当化してくるのが関の山。
そういう意味では、霊能やスピリチュアルを謳う人間というのは、格好の餌食といえそうです。
だって現代科学で証明ができないことを言うわけですから。
そもそもスピリチュアルとされることが現実にある、などと言うこと自体がフェイクニュース扱いされて嘘だと糾弾されても完全な反証は難しいわけです。
まぁ、そんなこんなで損することばっかりっぽいスピリチュアル実践者なわけですが。
それこそ現世利益Getが目当ての金の亡者だったら、そんなリスクを取ると思いますか?
他に、金を手にする方法がないないづくしの低能だから犯罪に手を染めるしかない路線の社会的弱者ゆえの「犯行」としてスピリチュアル稼業に精進しているのでしょうかね?
(だとしたら、ヒーラーの経歴あるあるですけど、『高学歴で、新卒時点で就職した会社も難関一流企業でそこからさらに出世したり独立したりで俗世間で認められた業種のビジネスをしっかり手掛けてお金でも社会的信用でもなんでも人並み以上に構築できている人』たちがどうしてスピリチュアルをガチるんでしょうか)
そもそも「スピリチュアル」という言葉を、どういう定義……どころか、どんな「なんとなくのイメージ」で言ってますか?
先ほど挙げたドラマのトリックでいうインチキ霊媒師のイメージで止まってます?
それより前の、それこそ宜保愛子さんなど1980年代どまり?しかもテレビで喋る当時の霊能者たちを「まぁ〜た、テレビがインチキを面白おかしくふざけてやってるだけ」と冷めた目で見て疑って信じないことをもってして良識ある大人だと自分のマトモさを確認できたつもりになったりしてました?(だとしたらなんて牧歌的な)
もうね、今、おそらく世界でも最前線&最先端のスピリチュアルとは、を身をもって体験できている方なのであろう私の素朴な感想からすると、そういう一切合切はもう、オハナシにならなさすぎて、いちいち反論したり、戯れ言でしかないそんな無知蒙昧な発言に耳を貸す価値すら見出せません。
(表向きは行儀良く、一見ちゃんと相手の話を聞いているかのような演技はしますよ?そりゃ今はうすっぺらいホワイト社会ですから)
今これからのスピリチュアルは、そんなヤワなもんじゃない。
人類みんながこれまで、まるでクラスの不良が悪ぶって脅して好き勝手やらかすのをビクビク怯えておとなしくしてたような状態だとしたら。
そこじゃねーから。
かといって、ブイブイ言わせてる不良たちをやっつけるとか、そういうことでもないから。
同じ土俵に乗らない。
なんていうか、別枠なんですよ。
もちろん社会の一員として法令の遵守と納税と……などの手続きには従いますけどね?
いわゆる昭和のサラリーマンの成功イメージみたいな、
「いい大学→いい会社→ハイスペ結婚→子供も難関名門校にお受験で合格→会社で出世してお偉いさんに」
という路線の価値観と立ち位置で生きていません。
そうじゃなくて。
と、ハードル上げるみたいに書いてきてなんですが、これからのスピリチュアル ガチ勢というのは、
「村祭りをつつがなく準備して開催の運営をしてみんなに楽しい思い出と感動体験を届ける、お祭り実行委員の人」
みたいな路線なのではないかなと思います。
実行委員をやること自体がべつに生業(なりわい)なのではなく、仕事は自分のお店を持ってたり、普通に勤めるサラリーマンや公務員だったりする。
けど、そことは別に、時間と労力を捻出して、お祭りの開催準備を着々と進め、開催当日はしっかり運営を仕切ってつつがなく終わらせる。
これからのスピリチュアルは、そこ。
「んー。長々と書いてるわりに、じゃあ今これからのスピリチュアルってのは要するに何なのか想像がつかないんだけど」
という感想をお持ちの人もいるかと思いますが、そう!そうなんです。
これこれこういうものですよ、と文章で表現して「へぇ、そうなんだ」と“理解”できてしまう類いのものではないんですよね。
というかそもそも、先ほど例に挙げたサラリーマン成功人生みたいな、要するに資本主義の末端でどちらかというと仕組みに踊らされて夢を見せられつつそれほど大きくは叶えられない弱者寄りの人がなんとなく社会から来る情報を歪曲して誤解して……で仕上がっちゃった思考回路の脳では、そもそも理解する概念がたりないかもしれないですし。
(いやこれ、感じ悪く非難してるみたいだけど、どうやらそうみたいだなという率直な感想なんですよ)
なんたって風の時代。
「なにそれ?」
と情報やセンスについてこられない、古くて遅くてダサくてアタマ悪くて「?」の連続で置いていかれる人は、そこどまり。
かくいう私だって、大上段に構えて余裕ぶっていられるほどでもない。
まずは自分がついていくのに必死。
そして、我ながらちゃんとついていくとか、なんならリードする側の発見がもろもろ出放題な今。
見えてきて体験して味わって初めて知ったその感覚や叡智などがとにかくもう素晴らしい!
えぇ、なんなら物好きの道楽、趣味人と捉えていただいても結構ですわよ?私個人に関して言わせてもらうなら。
だって私、昭和時代に生まれて、信じられないようながっかりするような、それこそデタラメばっかりを吹き込まれる「世間の一般常識」の中で「マトモにちゃんとする」ことを目指して学校の勉強をしなさい会社に入りなさい理不尽でも頑張って勤めなさい……路線の、まさにそっちの方がカルトじゃねえか的ながんじがらめの気味悪い社会で生まれ育ってうんざりしてきてるんですよ?
そのデタラメなルールの中でできない、落ちこぼれ扱いされたらボッコボコのけちょんけちょんに貶されて自尊心を踏み躙られるようなことをされまくって、それを「愛の鞭」だと感謝しなさい、なんてどこのSMクラブ?(入会した覚えないですよ)
そんな枠組みの人生をハイハイ言って受け入れて我慢我慢で、せいぜいどうにか結婚して子供ができてマイホームマイカーを何十年ものマイローンで支払いに追われて気がついたら老人で……な生き方より今これからのすんごい素晴らしいスピリチュアルに邁進する方がマシです絶対。
ただ。
スピリチュアルを謳うものすべてが絶対に素晴らしくていいものだ、真実をまさに言えている……とは全然思いません。
なにより、私自身がスピリチュアルな学びを深める場として在籍している某ヒーリングモダリティにしたって、ようやく今マトモなスタート地点に立ててきてるけどそれまでは魑魅魍魎がうごめく、本当に世間から悪く言われて当然のような有様でしたから。
で、スピリチュアル ガチ勢が集ってるのにこのザマかよ!という落胆と憤りをどうにかこうにかやりすごしつつ自分の学びだけはしっかり進めよう……と耐え忍ぶ心地でこれまで15年ほど、そういうモダリティ界隈で我慢に我慢を重ねてきた過去があるからこそ。
そんなどうしようもない最低最悪な様子から良くなってきてる変化もよくわかるし、こんなトコから何をしたって良くなるなんて無理ゲーに思えたかつての絶望的な状況がまさかこんなに回復するとは、という驚きも喜びもあるのです。
5〜6年前までは、見下げた根性すぎて全然尊敬できず大嫌いだった人たちも、今まだ残って活動している人たちは嘘のように別人にいい感じに癒されてエンライトメントされてきてるというか、まさにヒーリングが効いてる、スピリチュアルな学びが人格・人徳をこんなにも洗練させてる!……と奇跡を見るような心地さえするわけです。
スピリチュアルな分野で言われる「魂」なんぞが本当にあるのか、といったことを現代(どまりのショボい)科学で証明するのはまだまだ難しいのかもしれませんし、私はそこは重要ではないと思っています。
外野からすれば「何をやってるんだアイツらは?」と不可解に思えるかもしれないスピリチュアルの探究者たちかもしれませんが、少なくとも「そういう学び方、路線」を選んでシコシコ励んできてる面々ならではの、人間的な良い方への変化というものは厳然としてある。
この、「スピリチュアルが何やってるかわからない」がブラックボックスでしかないとしても、とにかくその箱の中に入れると取り出したときに、汚れてた物が綺麗になってる(という結果は得られる)なら。
少なくとも、摩訶不思議なお掃除ボックスというアイテムとしては価値があるといえませんかね。
べつにそういうので良くないですか?
そんなこと言ったら、部活だってそうでしょう。
運動各種、あるいは美術部で絵を描いたり演劇部で戯曲を演じたりすることが学生のどこにどう情操教育効果としてあらわれるのか、数式みたいに証明できてますか?してないですよね?
でも、部活を通じて、それまで暗くてコミュ障ぎみだった生徒がみちがえるように明るく社交的になった、そのことで本人に訪れるチャンスが増え、そのチャンスに挑んで成功でも失敗でも体験を積み重ねることで人間修養と人生の思い出充実になっているみたいだ……ならそれでよくね?
……と、目線が高いんだか低いんだかわからないことをあれこれ語ってきましたが。
私は今回の人生で、スピリチュアルと向き合って過ごしてきた人生を、他の生き方しか知らずにいた自分よりも本当に良い感じだなと思っています。
ただ単にスピリチュアルを謳うだけだとこんなにアララになるんだ、という危険性や実際に生じた残念地獄もそれなり以上に知っているからこそ。
スピリチュアルを謳ってなおおかしくならない、むしろこんなにちゃんとしていて素晴らしくて洗練された情報体系やそれを学べるカリキュラムの整備、それを着実に誠実に学ぶ人々……というすべてのパーツがうまく噛み合うことが、この俗世でも局所的であってもちゃんと実在するんだ!ということの尊さがわかる気がしますし、わかる気がするところまで来た自分の半生の道のりにも感謝の念を自然と覚えます(☜ねえ見て?あれほど感謝嫌いだった私が、これまでの嫌なことばっかりで酷い目に遭って不遇だった半生に対して感謝の念を自然と抱くところまで成長してきてるのよ?ありえないでしょ?w)。
本当にこの生き方でよかった。
素朴に無理なくそう感じます。
それを選びとって歩みを進め続けることができてきてる私は本当に素晴らしい偉大な存在だと思う。
これは自惚れではない。自分を客観視したときの冷静な評価として、実際にそうだと感じます。
これからも、まだお迎えがくるまでのいくばくかの時間があるならば、この路線で。
ここまで来られた私(たち)ならではの、この先を歩みたい。
ここまで来ることを陰となり日向となり支えてくれた諸々の存在への恩を返す意味でも、
あぁ、私、この人生をこんなに肯定できたの、初めてだな。
(そろそろ死ぬのかしら☜べつにそれでも全然、悔いはないわ。本当に満足できる人生だった、ありがとう)