記事では、著者が「お姫様願望」を手放すことの重要性を語っています。できないふりをして誰かに依存する姿勢でいることに警鐘を鳴らし、自立しないままでは成長が妨げられると指摘。自らの経験を通じ、最終的には自分で道を切り開くことが必要であると述べています。
ポイント:
1. 「お姫様願望」は成長の妨げになる。
2. 依存せず、自立して行動することが重要。
3. 過去の幻想を手放すことが自己成長の鍵。
できないフリをして誰かに甘える。
何歳になっても、男女どちらの性別であっても、あるある。
(男性の甘えたい願望はこれまで、『男は男らしく!』という性役割ゆえに?多くの男性が隠したり抑圧していましたが、普通にぜんぜんありますよわりとみんな)
なんでも一人で自力でやっちゃう、できちゃうのって、本来は素晴らしいことのはずなのに、
「あらあら、あなたはなんでも一人でお上手なのねwww」
と揶揄されることも。
(特に女性に顕著?)
これまた古い性役割というか性別イメージなのかもしれませんが、「女は(男に)護ってもらえるのが華」でドヤ顔して、なんならマウンティングで女の品格ヒエラルキーの序列が決まっちゃう……みたいな香ばしい伝統的価値観をいまだに引きずってる人も珍しくないものです。
だから、強く賢く有能になったら、負け。少なくとも「カッコ悪い」「ダサい」みたいな?
弱くて無能だけど完璧なパートナーが何もかもを満たしてくれるから何不自由なく贅沢三昧で勝ち組気取り。
それが本当に本当にお好きなら、どうぞどうぞ。
それこそ中国の纒足(てんそく)のように。
本来の人間の自然な在り方でいえば、大人になるにつれて足のサイズもある一定の大きさまで成長し、骨や筋肉がつき、日頃の運動の度合いに応じて神経の細やかさなどが発達していきます。
そしてそうやって身体的に成長できるからこそ、歩いたり走ったり踏ん張ったりの生きる上で必要となる肉体の所作もろもろが可能になるわけですよね?
それを縛って、育たないようにしてしまう。
護ってもらえなければ自分では歩くことさえできない。
纒足をはじめ、同じような?ことをするのは探せば(おそらく)古今東西ここかしこに文化として成立しているほどなので、どうしてもそこを突き詰めたい!それが良い!……という価値観は人類にあるのかもしれません。
絶対にそれをしなければ味わえない何々、があるのかもしれません。
そしてそれを実現することには、何かしら途方も無い素晴らしさや価値などがあるのかもしれません(←すでに義務的な棒読み)。
その良さみを理解できる方が是非、どこまでも探究していっていただきたいですね♪
ちなみに私はパス。
個人的なことを言うと、私は人一倍(とてつもなく、とほうもなく)お姫様願望が強い人間でした。
過去生の記憶なんだろうか、くらいの勢いで、とにかく可憐で儚い美少女気取りを30代が終わる頃まで引きずって、引きずる期間の長さの分だけ拗(こじ)らせていました。
その結果、どうなったか。
私を護ってくれる騎士は登場せず、白馬の王子様も来ず、というか来たとしても気に入らず、贅沢にワガママに選り好みをしつつ基本的に全拒否で、
ただただ弱くてアタマ悪くて無知で無能な(ふうを気取る)だけの中年
になってしまったのです。
「これじゃダメだ」
そう決断するには、これまた長い長い期間が必要でした。
だって、そう決断するということは、自分がお姫様気取りで実際にお姫様ライフを満喫するという願いを手放すこと。
手放せますか?
何十年も必死でこだわって抱え込んできた、絶対にそうじゃなきゃイヤ!というほどの強いこだわりある信念を。
それに、手放した後、どうなります?
「うわ!あの女、誰にも護ってもらえないから、自力で自活しはじまっちゃったよ!だっさ!!負け犬ね。独りで頑張って、腕に筋肉ついちゃって、まるで農園で働く牛や馬同然。それにお勉強?アタマ良くなりたいの?美しければ賢さなんて必要ないのにィ?独り上手でガリ勉の非モテ人生、乙〜♪」
という嘲笑を一身に浴びながら、老いさらばえた醜態を全世界に晒す毎日が何十年も続いていく宿命を受け入れるしかないんですよ?
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
いわば絶望。
しっかりくっきり、かっちりきっかり、絶望しきる。
「私は一生、お姫様にはなれない」
と。
こう思うだけで、もう生きていられないほどの屈辱が全身全霊を寄生虫の侵食のように駆け巡って悶え苦しむ地獄の業火。
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
何年もかけて、いや、もっといえば就職して一人暮らしをするしかない境遇であることに気づいた20代前半の時点で本当はうっすら気づいていたけど認めたくなくて悶々としはじまったあの頃から十数年?数十年?(←漢字が1つ入れ替わるだけで残酷にイメージが変わるわね)、徐々に徐々にじわじわと、
私は自分がお姫様ではないことを認めるという果てしない絶望を味わい、「I am お姫様」というアイデンティティを手放した
わけです。
それ以来、ある種の開き直りというか、自分が極道おばさんにでもなったかのように、恥も外聞もなく「自力で」なんでもやったれ!と、暴力的なポジティブさをアイデンティティにするようになりました。
げに、『天空の城ラピュタ』のドーラが若い頃はシータそっくりだったというエピソードそのまんま。
(宮崎アニメでエグい婆さん出てきたら若い頃は超絶かわいいヒロイン、は岡田斗司夫さんの名言ですよね)
正直いうと、平気では全然ないです。
でも、今度は良い意味で老いが味方してくれた。
鏡を見れば、そこにはお姫様の姿はもうなく、すっかり年老いてヨボヨボでシワシワの、どうしてまだ○なずに生きているの?と理解不能に思えるような腐ったカカシみたいな土塊が映る。
これが私?
これが私。
「そんなはずない」という抵抗も昔はあったけど、さすがにもう老化が進みすぎて、頑張る気力も息絶えました。
で、開き直った極道婆さんの方が、現世利益・浮世渡りという意味では、お姫様願望を手放した後の方がラクだし、何かと得るものが多く大きいです。
(でもそれが何、という虚しさと常にセットですが)
今ではもう割り切って、老後資金を貯めるべく、好きでもない金稼ぎに勤しむ、この世の最底辺としての“労働者”に成り下がっています。
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
っていうか、どうせいつかは死ぬのに、どうして死ぬ間際に生きるため+死んだ後に身辺整理だの遺体の焼却?だのといった手間賃をせめて他人様に迷惑かからないようにといって金を稼がなきゃいけないのか全然、理屈では理解できていないんですけどね私。
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
……という一切合切も、結局は私がお姫様じゃないから味わうしかない呪い。
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
あぁそうだ。
岸田今日子の朗読『鏡 (PR)』ってご存知ですか?
白雪姫のパロディなんですけどね。
王子様と出くわさないパラレルワールド的な展開を辿ると、若い頃は世界でいちばん綺麗だった白雪姫が独身のまま歳をとり、親たちもみんな亡くなって天涯孤独になるお話。
……嗚呼、私、気づいちゃった。
お姫様かどうかが問題なんじゃないのね。
若くて綺麗なうちしか、人間には生きる価値なんて(ry
(注:こういう悲観的な図式をイメージしているのは真実ではなく本人の思い込みです)
さて。
あなたなぁ〜ら、どうするぅ〜♪