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コラム

偏見は本当に悪か?——未熟さが育むサバイバルスキルの話

偏見や恐れは「弱さ」の味方でもある

よく「偏見は悪だ」「多様性を認めよう」と言われます。たしかにそれは正しい。けれど、まだ心も頭も未熟な時期には、偏見や先入観、恐れのようなネガティブとされる感情が、実は自分を守ってくれている側面があるのです。

偏見は、ある意味で「外の世界との摩擦を減らすためのフィルター」。すべてを受け入れるには、それなりの知性や強さが求められます。無防備に開かれすぎると、むしろ潰れてしまうこともある。だからこそ、未熟なうちはそうした「偏った防衛システム」が必要なこともあるのです。


偏見を超えるために必要な力とは

では、偏見を手放して多様性を認めるとはどういうことでしょうか。
これは決して「ただ良い人になろう」という話ではありません。

それには以下のようなスキルが必要です。

  • 寛大さ:自分と違う価値観を受け入れる広い心。

  • 知性:相手の立場を理解しようとする思考力。

  • メタ認知能力:感情に流されず、自分を俯瞰して見つめ直せる力。

これらは簡単に身につくものではなく、人生経験や内省を通じて少しずつ磨かれていくものです。


「香ばしい未熟さ」もまた大切なプロセス

偏見や狭い価値観を共有する仲間内で盛り上がる経験も、実は必要な時間だったりします。

「みんな同じことを思ってるよね〜」「私たち、わかってるよね〜」と同意しあうことで、自尊心が育まれていく。そこから少しずつ視野が広がっていくことも多いのです。

外から見たら滑稽だったり、香ばしかったりしても、人は誰しも未熟な時期を通って今があります。その時期を否定せず、むしろ必要なステップとして認めることが大切です。


「誰も裁かない」思想の落とし穴

スピリチュアルや自己啓発でよくある「ジャッジしない」「誰も否定しない」という考え方。これも、頭でっかちになると危険です。

現実には、能力や価値観の違う人たちと関わる中で、サバイバルスキルや現実的な判断力が必要になります。それを「すべての人が大切」と丸ごと受け入れてしまうと、自分の居場所や人生の進化にブレーキをかけることにもなりかねません。


偏見を乗り越えるには「強さ」が必要

心理学者ジャン・ピアジェの発達理論でも、人はまず自己中心的な認知(エゴセントリズム)からスタートし、社会的視点を獲得していく過程をたどると言われています。

また、社会心理学では「認知バイアス(偏見)」はストレスから自我を守るための自然な反応ともされています(例:自己奉仕バイアス、内集団バイアスなど)。

つまり、偏見をなくすというのは、それ相応の“判断力”と“精神的成熟”が伴ってこそ可能になる行為。弱いままでは、偏見を手放すと同時に自分を守る手段も失ってしまうのです。


「うまく渡る力」を育てるには

世の中には、「吠える犬ほど弱い」的な態度で威嚇しながら生きている人もいます。これは、知力・体力・精神力のどれもが足りない人が、なんとかして自分を守ろうとしている結果でもあります。

そう考えれば、赤ちゃんが泣いてオムツを汚すのと同じ。過剰反応してしまう人もまた、未熟なだけなんだと、少し俯瞰で見られるようになります。


未熟な人に「正しさ」を押し付けないで

「正しくあれ」「多様性を認めよ」という道徳や倫理的な“正論”を、まだ未熟な人に押し付けると、逆にその人を潰してしまう危険があります。

特に子育て中の親や、教育者、パートナー間での立場が偏っている夫婦など、何らかの指導的な役割を持つ人は要注意です。

理想は理想として大切にしつつも、現実には「その人の成熟度に応じた関わり方」が求められるのです。


おわりに:正しさよりも“見守る力”を

偏見を手放すことは美徳ですが、それを可能にするには、ある種の強さと成熟が必要です。そして、未熟なうちは香ばしい偏見に囲まれて、自尊心を育てたり、痛い目を見ながら視野を広げていく——それが人間らしい成長の過程なのです。

正しさを教えること以上に、「見守る」「待つ」「信じる」という関わり方が、実はもっとも深い愛情なのかもしれません。

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