カリユガとは何か?
インドの古い考え方によると、カリユガとは「霊的に眠りについている期間」を指します。この時期、人々は真実を忘れ、物質的な欲望に溺れると言われています。現世利益を追い求め、金や権力にまみれ、浅ましさが横行する。まさに今、我々が生きる時代がそうなのかもしれません。
逆境の中でスピリチュアルを学ぶ
そんな時代に生まれ、スピリチュアルな学びを求めることに、私はかつて強い逆境を感じていました。私が子供の頃、周囲の大人たちを見て思ったのです。「これが“まともな大人”なのか?」と。
良い大学を出て、良い会社に勤め、たくさんの給料を稼ぐ――それが“成功”とされる社会。しかし、そこに霊的な成熟は感じられず、むしろ物質的な競争と自己利益の追求ばかりが目立ちました。その光景に愕然とし、私は「本当にこの道が正しいのか?」と疑問を抱き続けていました。
世界の変化とスピリチュアルの復活
時代が変わり、私は今スピリチュアルヒーラーとして活動しています。そして、この活動を続けているうちに、世界が少しずつ変わってきているのを実感するようになりました。
これまで「悪がカッコいい」とされ、真面目な人が馬鹿を見るような風潮が支配していた時代。しかし、最近では「ちゃんとしたものがちゃんと評価される」流れが生まれています。特に若い世代において、その傾向は顕著です。まるで人類全体がアップデートされ、霊的に目覚めつつあるかのよう。
これは、私が長年取り組んできた“世界の浄化”が成果を出し始めた証なのかもしれません。素直に喜ぶべきことなのですが……
カリユガの意地はどこに?
しかし、ひねくれ者の私はこう思ってしまうのです。「カリユガだったら、カリユガなりの意地を見せろよ!」と。
大きな霊的エネルギーの波に当てられた途端、「あっ、やっぱりスピリチュアル大事だね!」とすんなり改心する。それはそれで素晴らしいことですが、正直ちょっと物足りない。
悪がカッコいいと豪語するなら、どんなに高い波動の影響を受けようとも「うるせぇ!」と突っ張るくらいの不良魂を見せてくれたっていいじゃないか、と。
そんなことを考えながら、私は「カリユガに生まれたならではのホンマモンのワル」との遭遇を楽しみに場末の酒場をわざーと選んで足繁く通うのです。
だがそこにいたのは……
しかし、実際に出会うのは、単に時代に乗り遅れた人々ばかり。彼らは「悪がカッコいい」と信じてはいるものの、すでに霊的な流れに気づくこともなく、時代錯誤の価値観を持ち続けているだけ。強い悪であるわけでもなく、ただ古い習慣に縛られているだけの姿を目にすると、正直がっかりしてしまう。
私が求めているのは、真の“悪の強者”だ。
高波動の浄化が押し寄せようとも、それを頑なに拒絶し、「俺は俺の道を行く!」と突っ張る、そんなカリユガの矜持を持った存在。
彼らが現れるのを、私はひそかに待ち望んでいる。
結局、カリユガとは何なのか?
カリユガとは、霊的に眠っているがゆえに、真実を拒絶し、物質的な価値に執着する存在。しかし、それを単なる未熟さと片付けてしまうのはもったいない。
むしろ、カリユガであることに誇りを持ち、「俺は最後まで現世的に生き抜く!」と徹底してみせる姿勢にこそ、ある種の“意地”が宿るのではないか。
スピリチュアルに目覚めた私が、なぜカリユガな悪の存在を求めるのか。
それは、どんな時代でも、どんな価値観の変化があろうとも、「俺は俺だ!」と貫く者の姿が、純粋に美しく、そして尊敬に値するからなのかもしれない。
それか、単純に時代の流れというか、どうあがいたってスピリチュアルな真実に即した霊的摂理によって運行するこの宇宙において、うまく振る舞えない哀れでぎこちない落ちこぼれをイジメっ子みたいなサディスティックな目で上から眺めて、せせら笑いたいだけなのかもしれない。
まぁ、そんなのどっちでもどうでもなんでもいい。
ようするにちょっと真実味の方が時代的に勝ってきたらコロッと影響されて良い子ちゃんになるようなワル(気取りだったただのヘボ)ってショボくて興醒めね、というオチです。
(長い割に最後まで読んだ人に対してなんて学びのない記事だ!w)