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コラム

「そこどまり」の人に期待しない

要約:
スピリチュアルな学びを通じて、人の理解力や限界を見極めることが重要であると説いています。相手の能力や限界に応じたコミュニケーションを取ることで、無駄なストレスを避け、自分の心身の健康を守ることができると述べています。

ポイント:

  • 相手の理解力を見極めることの重要性
  • 不適切な期待を抱かず、無駄なストレスを減らす
  • コミュニケーション不全を避け、健康を保つ方法
  • 相手に求める内容を調整することが大切

もともと私がスピリチュアルに興味を持ったきっかけ……というか、狙いのひとつとして

人の能力ってどうやったら伸びるのか

がありました。

それこそ学校の勉強でもスポーツでも、あるいはピアノ演奏など特殊技能とされるジャンルなんでも。

ましてや昭和〜平成の頃の、まだインターネットもなくSNSも存在せず、科学的な研究やその成果を一般人が知る方法etcのすべてが今よりも不便で、人々の集合知が拙かった頃。
今にして思えばとんでもない誤解・誤謬が平気で横行していました(よね?)。

たとえばダイエット。
水一滴も飲まず食わずで毎日何時間も運動するのを何ヶ月でも歯を食いしばって頑張れる奴だけが痩せられる、みたいな。
んなわけねーだろ的な話を誰もが当然と信じ込んでいたりしました(よね?)。

私は喋りを仕事にしたいと学生の頃から強く望んでいたこともあり、喋りのスキルや話芸の才能など、一般人とされる領域で一生を終えるつもりの人には一生無縁なようなジャンルの能力を高めなければと人一倍思っていたので、切実でした。
進学塾とかピアノ教室みたいな「そこで死ぬ気で努力してうまくなる、できるようになる」と次が見えるという類いだとも思えず、いったいどうすれバインダー的な当惑で常に不安に苛まれている始末だったので。。。

そこでスピリチュアルヒーラーとして活動するようになり超感覚的な能力が目覚めていくさなかにも、人の能力を伸ばす方法や、そもそも「伸びる」って何がどうなってそうなるの?という仕組みの解明に人一倍、熱心でした。

で、あらかたもろもろわかってきて。

やはりタイミングと適切なアプローチ、それに強度がぴったり合うのが重要と現時点では思い至っています。

逆に言えば、そこを外すと全然効かない。

全然効かない例としてたとえば「まだ言葉もよくわからないであろう幼児に向かって親が早口で論理的な説明をヒステリックに何分間でも長く怒鳴り続ける」があります。
わかりやすい例でしょ?(笑)
あの子どもの、びっくりして泣きそうになったり泣いたりしてるけど論理的な説明や大人が使う用語はぜんぜん頭に入っていってない様子。というか泣いている自分の感情に包まれ圧倒されていて、そもそも親が何かを話しているとしても注意を向けるゆとりがない。
仮に話を聞こうとしても、親の幼稚さゆえに怒りの感情をむき出しにして怒鳴り散らしている時点で、大人でも聞く耳もたんわ感。
それらすべてを乗り越えて子どもがどうにか話を聞こうとしても(←これができる子どもという時点でいろんな意味で超人的)、用語や前提としての価値観(世間ではこれをしてはいけない、という常識)を知らなさすぎて、まるで知らない外国語を聞くような理解度の低さにならざるを得ない。
それでも注意深く耳を傾ける子どもがいるとして(←まぁ基本もういないですけどね、現実には)、今度は話が長い!何分間でもクドクドとまとまりのない、要点は何か・結論は何かが見えにくい話が延々と続く。聞いてて眠くなる。そんなつまらない話しかできない親への尊敬ゲージがみるみる減少して0になり「だめだこりゃ」と呆れられて、よそ見を始めてしまう。
それを察知した親がさらに怒り爆発で
「人が話してんだから聞きなさいよ!どこ見てんの!!」
と、よそ見して親の話を聞いてない子どもが悪いような叱り方(というか自分が相手にされなかったショックだか屈辱感だかとにかく親個人の勝手で幼稚なネガティブ感情をぶつけるだけ)をする。

……もういいでしょ、このへんで(笑)。

これが大人でもあるんです。
精神年齢というかなんというか、その人が理解できる概念や、理解できる思考、価値観の限度って正直あるんですよ。
これは実年齢とはあまり関係がないようで、何歳になっても持ってる思考の関数(function)というかが変わらず増えずアップデートされず、見た目は貫禄だかがある中高年でも頭の中身は全然、ということがままあります。

誰かに何かを伝えたり、やってもらう、こちらの願いを聞き入れてもらうよう要請するetcのコミュニケーションをとる際には、親が幼児にものを伝える際に気を付けるがごとくに、大人同士であっても「相手がわかる話かどうか」を伝える前に吟味する価値があるでしょう。

いきなり大雑把にまとめますが、スピリチュアルな学びを通じて知識や知見を育み、超感覚的な能力や口頭などでの”一般的な”コミュニケーションスキルなど諸々を高めていくと、誰が相手でも一瞬で相手の「理解できる範疇」をスキャンして分析できます。
つまり、伝わる話かそうでないかがわかるんですね。

これが日常生活でどれだけ人間関係のストレスを限りなく0にしてくれるか、想像できますか?

今でははっきりいって、
「人間関係のストレスなんてどこの誰が抱えるの?本当に実在するの?」
と感じるほど、コミュニケーション不全に端を発するトラブルやそこから来るストレスとは無縁の日々を早何年……という期間にわたって過ごすことができるようになりました。

これって地味にありがたいんですよね。

この、地味だけどありがたい、「日頃こんな感じ」のストレスレベルの減少を日々、得られるだけでもスピリチュアル学んでよかったと思っています。
だって、人間関係由来だろうとお金がたりない不安だろうとなんだろうと、日常的に常に何かしらの心配事から来るストレスというのがあり続けるのって、「常に毒を点滴した状態で生きている」ようなものですからね。
そういう良くないストレスはさっさと常に0状態にしてキープする日常を「当たり前」にしたうえで、勉強や健康維持のための筋トレなど運動、やりたい(けど実行するとなると大変な)ことの実現に取り組むというストレスに耐えられるようにしておく方が健全なのではないでしょうか。

そのためにも!

現時点での相手の能力をトータルで解析して、できない・わからない・わかろうとしないetcのコミュニケーション不全が生じることがわかったなら言わない、お願いしない。
その人の協力がなくてもどうにでもなるように別の手段などを考える、準備しておく。
そこらへんが自分の心身の健康のためにとてもとてもとっても大事だなと思うようになりました。

相手が現時点で陥っている「そこどまり」の”そこ”がどういうところかを正確に見極めて、それを超える何かしらは求めない、伝えない(だって求めたり伝えたところで相手にはできない、わからないから)。
とってもシンプルでしょ?
でもこれが簡単とは言い難いんだ、なかなか。

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