この記事は、特定のヒーリングモダリティを唯一絶対なものと見なす思考停止に陥ることなく、新しいモダリティや探究の可能性を認めるべきという主張です。
〜ポイント〜
・ヒーリングモダリティは一つで完結するものではない。
・常に新しい発見や進化の余地がある。
・受け身ではなく、自ら探究する姿勢が重要。
・他のモダリティにも公平な視点を持つべき。
これはシータヒーリングに触れたことがある人しか抱かない疑問なのかもしれませんが。
他のヒーリングモダリティでも、だいたいその創始者や信奉者は「これぞ最高!」と思っているフシが。
で、
「この完璧で究極で万能なモダリティの他に、いったいどんなヒーリングモダリティを創始する余地があるというのだ?」
という思考停止に陥りがち。
もう、マトモな思考かどうか以前に
「とにかくこのヒーリングモダリティが唯一、絶対に正しくて最高なのだから、他は何もかも見劣りする」
という偏見に自分自身が呑まれて、他のヒーリングモダリティを冷静に捉えること自体ができていないことも多々。
(考えるも何も、その『他のヒーリングモダリティ』を実際に受講して見極めるほどカラダ使って突撃取材してないので情報があってないような程度……ゆえに考える材料がまともにないので思考を巡らせたところで無駄、がほとんど?)
まぁ、その手のあるあるはこのへんにして。
いきなり現実的なところに話題を変えますが、たとえば料理。
本やレシピ、教室など、いまだに続々と新しいものが出てきていますよね?
ただ単にやってる人や学校が新しいだけで教える内容は良くも悪くも手垢にまみれた王道の古典&基本で何一つ斬新なことはない……という場合もあるといえばありますが。
創作料理として本当に新しいレシピやメニューを考案する人もそれはそれでどんどん出てきていますし(&イマドキのネット事情でSNSや動画サイト、ブログなどでそういう人の存在が可視化されやすくなってますし)、レストランの盛り付けなども続々とこれまでにない斬新かつ美しい、食べるという機能面etcに照らしても合理性や楽しみのあるものが誕生してるじゃないですか。
これは料理だけじゃなく、もうどの分野に目を向けても「完全に打ち止め」になってるところって、よほどでないと無いですよね?
そこに人がうごめいている限り、人々の意図と行動によって、その界隈自体が完全に廃れて見捨てられるでもなければ、必ず新しいものは生まれてくるものなのです。
ただアイデアとしてまだ出ていない何かがあるかないかという単純な話とは別に、すでにある分野の技術について「上手い/下手」つまり巧拙に目を向ければ、ピアノ演奏でも絵描きでも、無限に高めていけるわけじゃないですか。
ピアノの鍵盤の数が89鍵以上に増える必要はなく(まぁ、やろうと思えば増やせはしますが)、ここ150年くらいで固定化・安定化された88鍵のなかで、ピアノ弾き(志願者も含む)たちがいったいどれだけ七転八倒してると思いますか。その結果、どれだけ人気なり技術力なり表現力なりに無限の差が開くと?
じゃあなんでスピリチュアルヒーリングだけは、とある完全無比なモダリティが誕生したらそこで新規発見が終わることになっちゃうの?って話。
そんなわけないでしょ?と。
それにシータヒーリング自体、次から次へと今、講座が登場しまくってきてるじゃないですか?
完全に何もかもを網羅して「はい、おしまい」じゃないことの何よりの証明ですよね。
で、べつにヒーラーというのは個々人それぞれが、たとえ今は何者でもない扱いだろうと、弱小モダリティの創始者と評されようと、無限の活躍の可能性を持っているもの。
その中で、どうして特定のモダリティだけが「唯一の正解」認定ということになり、それでいて新しい講座が出てくるという余地があるにもかかわらず、そのモダリティ創始者が新しい講座をつくって開講してくれるのを待っている必要があるのでしょうか?って話なんですよ。
もっといえば私自身はここがもどかしくて、待っていられないからシータヒーリングの講座を指を咥えて何年でも待つようなことに時間を費やすわけねーだろ、で自分独自の霊的な探究を始めることにしました。
その探究の中での発見をシェアしたい、他人にも再現性があると感じることであれば教授・伝授してさしあげたい……というのが、結果として私自身が創始したヒーリングモダリティのはじまりです。
(どうやら世の中には、ただの出世欲、肩書き自慢のために、どこぞのヒーリングモダリティの『認定プラクティショナーand/orインストラクター』どまりでは嫌だから『私が創始者!』と言いたくて、無理くりアイデアを捻り出して、あるいは実質的には何も新しいアイデアはないのに名前だけ新しいものにしてしまう『騙り屋』みたくなる人もいる始末のようで。みんな悪徳モリモリで逞しいなぁと思います)
私は独自の探究をしてなお今現在、たしかにシータヒーリングが謳っているこの世界というか宇宙の成り立ちは間違っていないと捉えています。
(よく、ヘミシンクなど、この世(宇宙?)を周波数帯だかなんだかで層ごとに区切って捉える考え方は世の中にごまんとあるようですが、私はそこでシータヒーリングとは違う区分をしているからといって、どちらかが合っていてもう片方が間違っているとは捉えません。
そもそも何を基準にこの世をどこで区切ることにそのモダリティがしているかの話であって、区切り方の基準が違えばそりゃ、数字も変わってくるでしょうよという至極、一般的なのであろう解釈ゆえです)
だからといって、じゃあ創造主まで「出きった」なら、もう新しいヒーリングモダリティは要らないんじゃ?創る余地はないんじゃ?……は早計。
私が創始したヒーリングモダリティでも、宇宙の成り立ちという意味では捉え方はシータヒーリングが提唱しているものはそのまま真理だなと思っており、べつに「創造主よりもさらに高次の領域がある!」などと高さ合戦に参加してホラを吹聴しているわけではありません。
その範囲内で、細かくやっていくことは全然可能なことに気づき、どこをどう細かくやっていくと何がどうわかる・できるのかを探究を通じて見えてきたから、興味がある方にお伝えしているだけなのです。
だって、シータヒーリングで創造主につながって共同創造するという「究極」を知ったからといって、すべてのシータヒーリング講座受講者が何もかもを完璧に瞬時に現実創造できているでしょうか?
……って話。
ただ単にテキストにそう書いてあったからというだけで究極だか何かの概念なのか領域の存在なのかを知ったからといって、それがすなわちこの世で受肉して送る一生としての人生のありとあらゆる不足や欠陥、叶っていない願望を瞬時に全部全部叶え続けてくれるというわけでもないのですよ。
それどころか、どこぞの誰かがテキストなり書籍なりにあらわしてくれたからといって、ただそれを読んだり講座に出るだけ出て「知った(つもり)」なだけで終わってしまうのが、スピリチュアル探究という意味では最低最悪。
テキストにはそう書いてあるとして、その書いてある内容をどこまであなたは体現できるんですか?って話なのです。
口先だけで知ってるかどうか、説明できるかどうかではなくて
できるかどうか、だけがすべての技術者の世界
なのですよ、スピリチュアルヒーリングは。
その教材としてヒーリングモダリティやその講座はあり、場合によっては本当にシータヒーリングでもなんでも、とあるモダリティだけでどこまでも探究できていけている人ならいいでしょう。
誰も彼もが必ずこうしなければいけないということは全然なくて、その人に合う勉強法が個々人ごとに異なるように、やり方は個々人ごとで別にいいと思うんです。
英語にしたって、どのテキストを使うか・どの英会話教室に通うかは全然問題ではなく、最終的には「英語ができる」ようになればなんでもいいわけじゃないですか。
スピリチュアルヒーリングもそれと同じこと。
やり方はどんなんでもいい。
霊的摂理やそれと符合・連動する物理法則etcの「目に見えない世界と目に見える世界」がどういう仕組みで動いているかは、万国共通。
その仕組みの中で、本当に癒しでも願望実現でも(というか、癒しは『癒えてほしい』という願望の一種なので、ようするに現実を思うように創造and/or変化させる技がスピリチュアルヒーリングなんですけどね)本当に「でき(てい)る」ならいいんです。
逆にいえば、できていないなら、どれだけすごいモダリティのテキストを読んで知識を知っている(だけ)とか、その創始者とされる人から直接、教えてもらったetcの手段各種のすべては「無駄」も同然。
ミーハーに、創始者とツーショットの写真を撮ってSNSで自慢するなど、目的がヒーリング実技の習得ではない方に向いちゃってるアララな人はそれで満足なのかもしれませんが、もうそういう人はスピリチュアル探究者でもヒーリング実践者でもなんでもない「スピリチュアル界隈でのアイドル推し活」に落ち着いている(≒落ちぶれている)のだと思いますし。
(まぁ、スピリチュアル界隈のアイドル推し活をしてはいけないわけではないからケチをつけるつもりもないけど、そういう方面に転んじゃった人が、ちゃんと修練を積んでしっかり探究していこうとする人とあたかも同じ学びの徒であるかのようにズケズケ接するのも違うよな、と思ってます)
あ、ちなみに創始者ドヤしたいだけの中身のないモダリティとその創始者は完全OUTで情状酌量の余地は全く無いと思ってます。