無自覚に「本気を出せば私はすごい」と信じる人たち
近年、スピリチュアル業界では「自分は本気を出せばすごい霊能力を発揮できる」という暗黙の思い込みを持つ人が増えています。たとえばシータヒーリングでは、創造主と呼ばれるエネルギーからのメッセージを得る手法を学びますが、実際には「私は創造主に頼らなくてもピンとくる!」と独自の直観を頼りにする人が後を絶ちません。
彼らは、いつの間にか創造主と繋がることをやめ、まるで自分がカリスマ占い師や教祖にでもなったかのように、他者へ向けて「ありがたいお言葉」を語り始めるのです。
「私には能力がない」と言いつつプライドは高い
面白いのは、こういう人たちの多くが「自分は能力が人より劣っている」と謙遜する一方で、「私の見えたものこそが真実!」と確信していることです。
私自身、マイティピュリフィアやマルチプルアバンダンスといったヒーリングモダリティを教えていますが、その場で「私が観えたことがすべて!」と語り始める受講者に何人も遭遇してきました。
スピリチュアルを「自由にやらかせる場」として利用
彼らは、なぜスピリチュアルの場でこうも自己主張が強くなるのか?
それは、スピリチュアルの場を「誰にも口出しされずに自由に好き勝手できる場所」として認識しているからではないでしょうか。
おそらく、幼少期から親や学校、社会の規範に縛られ「私はこうしたいのに!」という鬱憤を募らせてきたのかもしれません。しかし、勉強やスポーツ、仕事などで実績を出せるわけではない。
そんな中、スピリチュアルなら……
・目に見えない世界だから「言ったもん勝ち」
・曖昧で抽象的な発言なら責任を問われにくい
・自分の好きなことを語れる
こうして、他の場では自由にできなかった鬱憤を晴らしているのではないでしょうか。
指導されると途端に興味を失う
スピリチュアルは本来、厳密な理論や計算が必要な理系分野よりもさらに厳しくあるべきものです。しかし、指導を受けると彼らは露骨に興味を失い、
「つまんない」
「めんどくさい」
「私の感覚を否定するな」
という態度を取り始めます。
そして最終的には「私が習った先生は全員微妙だった」と結論づけ、「私の霊感は教わるものではなく、自然とできちゃうもの」と語るのです。
霊能力を言い訳に「都合のいい優越感」
彼らは「私は特別な霊感を持っている」という設定に酔いながらも、大きな責任を伴う仕事はしません。小さなことにしか力を使わず、
「この間起きた災害の被害が少なかったのは私がエネルギーヒーリングをしたから」
などと、適当なことを言います。
結局のところ、これは自己効力感の低さを補うための「自尊心維持の補償行為」に過ぎないのではないでしょうか。
スピリチュアルごっこを楽しむ現代人
驚くべきことに、こうした人たちが今の「普通」の多数派です。
かつての時代なら、スピリチュアルに没頭する人は全財産を寄進し、家族とも会わない覚悟で修行に入ったものです。しかし今は、ゆるく楽しめる「スピリチュアルごっこ」の場になっています。
私はプロのスピリチュアルヒーラーとして、こうした「ごっこ遊び」に付き合うための精神的風俗業者ではありません。しかし、この流れが止まることはなさそうです。
スピリチュアルの軽視
音楽や舞踊といった他の芸事、スポーツあるいは専門的職業など、しかるべき技量を発揮することが求められる場では「適当な態度でやるのははしたない。ましてやそれで下手な真似をするなんてありえない」とたしなめる文化があります。しかし、昨今のスピリチュアルではこの感覚がゆるすぎると感じます。
スピリチュアルヒーリングも本来は厳しい修練が求められるもの。それを無責任に「自由にやりたいから」と好き勝手に扱うのは、楽器をめちゃくちゃに演奏して「私、弾けるんです!」と言うのと同じではないでしょうか。
こうした現状を前に、私自身「もうスピリチュアル業界から手を引こうか」と思う今日この頃です。
なぁんてね。