要約:
この記事では、デタッチメント(感情的な距離感を保つこと)の重要性を強調し、特にヒーリングモダリティやその創始者への過剰な熱狂や盲信が、本来の探究心から逸れるリスクについて述べています。バランスを保ちながら距離感を持つことが大切だと主張しています。ポイント:
デタッチメントは、冷静に物事を見るための美徳。
ヒーリングモダリティへの過剰な熱狂や盲信は本質から逸れる。
距離感を保つことが、健全な人間関係に繋がる。
デタッチメント(detachment)とは、物事や人に対して感情的に関わりすぎないことや、冷静に物事を見る態度。例えば、感情に左右されずに冷静に判断する姿勢を指します。
意外に思うかもしれませんが、これは美徳のひとつです。
何にどのくらいデタッチメントするのが適切かは時と場合と相手とその関係性次第ではありますが、たとえばあなたが何かしらのヒーリングモダリティを学ぶことを通じて自身の成長や能力UPに勤しんでいるなら、そのヒーリングモダリティからしかるべくデタッチメントするのは存外に大事なことだといえるでしょう。
ある意味、ヒーリングモダリティというもの自体が人気あればこそ多くの人が集う「場」であり、それはつまり芸能人や音楽バンドのようなアイドル的存在(である創始者やその活動)にファンが押し寄せる「推し活」としての側面を持っているといえます。
そこで集うファンとしての、いわばそのヒーリングモダリティという”宗教”の「信者」同士が集合意識的に「○○ヒーリング最高!」というノリを作り出し、ファンの語源であるファナティックな熱狂の渦(ボルテックス)を生み出す。
それがどこまで良識的か過激かはそのモダリティの隆盛ぶりや信者たちの中でもどういう小グループに属するか次第だとも思うのですが、正直いってヒーリングの本質ではないところに過剰にエネルギーが生じて、ある種の電気時的な霊的エネルギーを帯びているともいえそう。
そう、人の想念という霊的エネルギーはなんでもかんでも電磁気的。
それはつまり、引力もあれば斥力もあるということ。一言でいえば「アンチを許さない」「忠実なファンであれ」という同調圧力が生まれる原因にもなるのです。
私が私見を述べていいなら、多かれ少なかれヒーリングモダリティ自体に対するファナティックな状態になっている時点で、ヒーリングの探究という本質からは逸れていると思います。
もちろん人間ですから、純度100%の探究心でヒーリングを一心に学び続ける方が非現実的でもある。
ので、モチベーションを鼓舞したり維持する意味でも、(信者)仲間と集ってある種の熱狂を共有してそれがなんともいえない親近感や親密さにつながり、それが日々のストレスフルな日常を束の間、忘れることができる癒しの(麻薬的)リラックスタイムにも興奮剤としても役立っている……というグレーゾーンを楽しむのもアリっちゃアリ?
その塩梅が、人間としての諸々のバランスの上手い下手を分けることになるのかもしれません。
そのヒーリングモダリティの中にうごめく人々と、どのような距離感と関係性で付き合うことにするか。
ヒーリング自体の探究とは別に、あるいは同時に、そういった浮世渡りとしての現実的な処世術も頭の片隅に入れておかないと、ね。
モダリティ名は出しませんが、いまだにあるっちゃあるんですね。
某ヒーリングモダリティの創始者のことを、本当にヤバいくらいの熱情と偏狂的な愛で崇拝して祀りあげる風潮(と、それにどっぷり染まりきってカルト教団信者そのもの!な異様な雰囲気になってる人たち)。
他人に対しても、自分と同じ熱量での盲信を脅迫的に求めており、誰かが冷静で客観的な立場から批判などしようものなら、殺意同然の鋭い眼光で睨みつける。
そしてそんなにも、創始者やヒーリングモダリティという他者に愛情を寄せているふうで、実はその人自身がたまさかそうした創始者など他人の存在を偶像という駒にして利用し、勝手に自分の理想とする世界観を脳内に構築して独りよがりにその図式を愛でているだけの残念さ。
(だからこそ本当にアイドルや音楽バンドなどに対して、それまで熱狂的なファンだった人も『失望した』といって離れたりブーイングが起こるわけですね。よく考えたら自分の期待を勝手に他人に押し付けて、それがたまたま叶っている間だけ、自分の脳内理想が具現化されたように勝手に感じて持ち上げ、『推し』ていただけという傲慢かつ自己中心的な悪徳ゆえの思考なんです)
べつにこちらからすれば、そういう状態でいる人に苦言を呈して目を覚まさせる義務も義理もないわけですし、そういう有様で生きてその人が何か酷い目に遭うとしてもこちらの責任では全然ない。
だからこそ無視して放置、関わらないというデタッチメントの姿勢でいることが、「君子危うきに近寄らず」という恩恵も得られるわけです。
でも孤立したくない、せっかく共通の「推し」がいるもの同士、多少なりともファナティックな熱狂を共有して思い出にしたい……という”人間らしさ”とデタッチメントのバランスが、これまた人間力を問われるところだったりするわけですが。😅