他人への恨みが個人性を失うとき
幼少期から親や家族、学校教師やイジメをしてきた同級生など他人に対して抱えてきた恨みや失望感。それは、自分が成長し、多くの人と接してきた結果、ある瞬間に個人性を失うことがある。
大人になり、多くの人と接して知見が増える中で、知能指数や知識の低さ/無さ、思考様式の欠如などが同じ条件であれば、誰でも似たような反応を示すということが理解できた。
たとえば、良くない出来事が起きた後に「だから言ったのに。こうすればよかったんだよ」と言われるあの瞬間。事前には何もアドバイスをしていなかったにもかかわらず、失敗後に正論を振りかざされても、言われた側にとっては怒りや悔しさが募るばかりだ。
そこで「だったら最初に言ってくれればよかったのに」なんて返そうものなら、古今東西津々浦々で見られた「あるある」な泥仕合が始まるだけ。
子どもの頃やまだ20代の若造とされた年代ではいちいち、ムカついた相手「個人」に対して腹を立てていたし、怨みがましく思ったりもした。
でもそれも、いろんな人が同じパターンでそうするのを数こなすうちに「ん?」と、さすがに鈍い人間でも気がついてくる。これがいわば年の功。
誰もが陥る「正論の罠」
この「だから言ったのに」といったセリフは、私が幼少期に親や兄弟をはじめ、知性的にはあまり洗練されていない人々がよく口にしていたものだ。成長した今、そうした言動が知性の欠如に起因していると理解できるようになった。つまり、特定の思考力や観点が欠けていると、誰しもが似たような反応をしてしまう。
特定の、とはこの場合たとえば
・よくないことが起こってしまったその瞬間に必要&大事なのはその状況を解決・回復・打破する提案であって、「もし・たら・れば」という仮定を使って人を責めても現実は少しも良くならない
・事前に何も言っていないのに「だから言ったのに」はそもそも嘘である
・ただでさえ酷い失敗をしてショックを受けている状態の人間に向かって真っ先にすべきなのはその傷ついて当惑した状況へのサポートであって、失敗の原因を責められたら弱り目に祟り目なだけ
・もし本当に「なぜあんな失敗をしてしまったのか原因を分析して次から2度と失敗しないで済むための反省」タイムがその失敗した本人に必要だと思うなら、それは今の失敗した状況とそれをした本人のショックが落ち着いた「後」に別途、時間を確保しておこなうのが効果的である
・そもそも自分が、いま目の前で失敗した人に対して説教めいた訓示を垂れたり、失敗を責めたり罰したり反省を促すべき立場と関係性にあるのだろうかという謙虚な自分自身へのメタ認知能力(相手から尊敬され信頼され、耳が痛いことでも聞かなければと相手が思っていないなら、説教はただのウザい苛立ち要因にしかならない。それどころか、失敗した自分を責めることを言ってきたと怨まれるかもしれない、人間関係が悪化するかもしれないという推測ができるかどうか)
みたいなところでしょうかね。
意外と多い「学力の低さ」
こういったことは、妥当に年の功とされる知恵を培ってきた人間なら誰でもできるのでは?と思ったが、どうやらそうではないらしい。
そこで私はある時期から「もしかして世間には、自分が思っているよりも知能が本当に低い人間というのがザラにいるのでは?」という仮説。
これはニュースやSNSなどでも近年、明らかになってきているみたいだが、それこそ大人とされる年齢に達しても、まともに文章が読めなかったり、計算や漢字が極端に苦手だったりする人が多い。
例えば、「犬は哺乳類だ」と説明した直後に、「犬は哺乳類?爬虫類?それとも魚類?あるいは両生類?」と尋ねると「え?いきなり聞かれてもわからない。人類……かな?」などと戸惑う人が現実に存在する。
このように、話を聞いていないのか、理解できていないのか、非常に曖昧な反応を示す大人が意外と多いことに愕然とする。
こうした経験を通してわかったのは、人間の知性や理解力には大きなばらつきがあり、必ずしも年齢がそれを補完するわけではないということだ。
結論:割り切ることで解放される
そういう人のことは良くも悪くも、たまたま私の親や家族、学友、同僚etcという関係性で知り合っただけで、知的には残念な “One of Them”な他人なのだと割り切ることができた。もちろん可能性はゼロではないのかもしれないが、よほど本人が本気にならない限り、そのような人々は変わらないし、そもそも本気になること自体が一生ないだろう。何より、本気で変わらないとまずいと自覚すらしない。「これのどこが悪いんだ。人のことを悪く言うな」と、あくまで自分を肯定し、正当化し続けるものだ。
たとえ親子という一般的には近しいとされる関係性があっても、その間には深い溝や壁があり、わかりあえないことは残念な気もするが、少なくとも自分の努力でどうにかなる問題ではないと理解した。
そして彼ら自身には、それをどうにかしようと思うどころか、「それ」がなんなのか想像できない。
「べつにどこにも溝も壁もないだろう。お前は何を言っているんだ?相変わらず頭がおかしいな。いいから黙って言うことを聞け」
とキョトンとするのは、20年以上の関わりの中で何度も見てきた。何度だって何年経ったって変わることはなかった。
だからこそ、今では「赤の他人」として、住む世界が違う人だと割り切ることで、確執を感じる原因としての親子としての親近感(というものが本来あるのではないか、という淡い期待的な幻想)もなくなった。
そうした期待が裏切られたというある意味では子どもじみた一方的さで抱えた愛情がこじれた形としての「恨み」も、完全に絶望してあきらめることで消え去った。今では、かつて近しい存在だとされるのだろうからあわよくば良い関係を築けたらいいなと思えていたはずの彼らが「知らない人」に感じられる。
これからは、自分と話が通じ、知性がつり合う人々と共に歩んでいくことを選びたい。そうしなければ、自分が苦しむことになるという真実を、幼少期から学び続けてきた。ある意味、これを教えてくれた家族に感謝しながら、私は自分自身の道を進んでいこう。