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コラム

他人との境界線を引くことで、初めて他人を慮れるようになった話

1. 「他人を慮れない」硬い信念

私は子どもの頃から、虐待のような扱いを受けて育った。その影響で、誰よりも「自分が脅かされること」に敏感になった。

被害者意識も強く、しかもケチだったので、

「こんなに酷い目に遭って苦しいのだから、私は他人のことなんか配慮しない」

と開き直っていた。

この考えは、大人になっても変わらなかった。会社員時代、同僚の誕生日にプレゼントを渡すためのカンパが回ってきても、私は一切払わなかった。

結果として、私は周囲から距離を置かれるようになり、それを縮めたいとも思わなかった。

2. 失った学びと、もったいなさ

この状態のまま過ごしてきたため、生身の人間同士の付き合い方を学ぶ機会をかなり失っていたのではないかと、今では思う。

「もし人とうまく付き合えたら味わえたであろう経験をできなかったので損をした」とは思わないが、学習の場があったのに能力を学び損ねた機会損失と、みんなが自然と持っている能力を一人だけ学ばなかったという「もったいなさ」は感じる。

3. どうやったら他人を慮れるのか?

50歳を手前にして、「どうやったら他人のことを慮れるのか」を試行錯誤し始めた。

詳細は省くが、結論としてわかったのは、余裕がないと他人を慮ることはできない ということだった。

傷ついた自分を守るのに必死な状態では、どうやっても他人に配慮することはできない。

そしてもう一つの発見は、世の中の多くの人が「実はたいして他人を慮っていない」ということだった。

無責任で適当で、薄っぺらい感傷も込みで、いい加減だからこそ浮世を渡っていられる。

そういうバランスがあってこそ、人は「他人を慮れる」のだと知った。

この「みんなの普通」を知ったとき、がっかりしたが、どうやら本当にそうらしいと実感した。

4. 実は私は、ずっと他人を慮っていた

ここで、もう一つ大きな気づきがあった。

私は子どもの頃からずっと、実は他人のことを慮っていたのだ。

自分のことで手一杯なのに、他人の様子を感じ取ってしまう。その結果、キャパオーバーになり、

「他人のことなど気にしない!」

と必死に頑なになっていただけだった。

つまり、世間の多くの人は、私よりはるかに鈍感だったのだ。

5. 境界線を引いたら、ようやく楽になれた

そこで、私は「他人との境界線を引くこと」の重要性を学び、実践するようになった。

その結果、ようやく「他人を慮り続ける状態」から回復 できた。

つまり、時に応じて他人を慮る(=それ以外のときは慮らない)ことができるようになったのだ。

今までの私は、「ずっと他人を慮る or まったく慮らない」の二択しかなかった。

でも今は、必要なときだけ他人を慮る という柔軟なあり方を手に入れた。

こういう人は他にもいるのでは?と思い、記事にすることにした。

もしあなたも「他人を慮ることが苦しい」と感じているなら、境界線を引くことで楽になるかもしれない。

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