この記事では、「体の声を聴くこと」と「体の自由意思を認めること」の違いが強調されています。体の声は重要だが、その結果に従うかどうかは人格が判断すべきで、体の自由意思に任せるべきではないと述べられています。調和と統御を通じて自己を制御することがスピリチュアルな修練と同じだと説明されています。
ポイント:
1. 体の声は聴くが、自由意思は認めない
2. 自己の霊的エネルギー的な調和と統御が重要
3. スピリチュアルな修練は学びのプロセス
「(頭では平気だと思っていたのに)体が悲鳴を上げる」
といって会社員などがメンタルヘルスの不調で会社を休職する……といった事象が珍しくなくなってきています。
スピリチュアル界隈では、往年の名著
『〈からだ〉の声を聞きなさい―あなたの中のスピリチュアルな友人』(リズ・ブルボー 著)
が延々と売れ続けているとおり、いまだに体の声を聴くとは
・どういうことか
・できたとして、何の役に立つのか
が漠然としているのが世の実状ではないでしょうか。
体の声を聴くとはどういうことか+どのように身につけるのか&解釈するのか、は上記の本に譲るとして。
ここではタイトルのとおり、
体の自由意思を認めてはいけない
ことを力説しておきます。
体の声は聴くけれども、その結果どうするかは人格側で判断して対処するものなのです。
体側の自由な判断で現実を変化させるのを許容してはなりません。
体の自由意思を認める形になってしまう1つの典型例が癌です。
スピリチュアルな観点からすると、なぜ癌ができるのかはいろいろなバリエーションもあるので一概には言えないのですが、ここで書いてきたように、体の自由意思を具現化させてしまったことが原因の1つ。
では、体の自由意思を認めるか否かはどのようにするのか。
これまた抽象的な修行の話に聞こえるかもしれませんが、ルドルフ・シュタイナーの言葉を借りるならエーテル体とアストラル体それから自我エネルギーの調和と統御、に尽きます。
(ほら、抽象的な修行の話っぽくなった♪)
じゃあ次は「エーテル体とアストラル体それから自我エネルギーの調和と統御」ってどうやるの?という流れになります(よね?)。
はい、それがいわゆる、「スピリチュアルを実践して学ぶという修練を積む」範疇に入ってくるのです。
知識を身につけながら、実践して「できる」ようにしていく。
ピアノやヴァイオリンを弾くとか、野球やサッカーが上手くなる、柔道や空手などの武術で強くなるプロセスとまったく同じ。
いまどきよくある「たった5分で一流のプロになれるなんちゃら」みたいな、YouTubeで<有料級>を謳う動画や情報商材は無いのですね。残念ながら、と付け加えておきましょうか。
このタイトル記事の〆としてはふさわしくないかもしれませんが、この記事に書いたようなことをいわゆるスピリチュアル実践者たちは習い事のように、あるいは仕事として、カネは稼がないとしてもライフワークとしてetcの何某(なにがし)かの位置付けで、しているのです。
詳しく知りたかったら+できるようになりたかったら、しかるべく時間なりお金なり労力なりを注ぎ込んで身につけるしかないのですねぃ。