映画『ウィキッド』が大ヒットしています。本作は『オズの魔法使い』をモチーフにしつつ、そこに登場する善良な魔女グリンダと悪い魔女エルファバをW主人公に据えたスピンオフ作品です(原作とは異なる作家によるもの)。
もともと、女優のデミ・ムーアが映画化の権利を取得し、自身がエルファバを演じるつもりで1990年代から動いていました。しかし、映画化には至らず、知人のアドバイスで「まずはミュージカルから」という流れにシフト。その結果、舞台は大成功を収め、さらに20年以上の時を経て映画化が実現しました。
オズの国の歪んだ価値観
『ウィキッド』の舞台となるオズの国は、一見するとファンタジックな世界ですが、その社会構造には厳しい現実が映し出されています。オズの国の人々は、ヒーローとされる者を無条件に持ち上げ、逆に悪評が立った人物には容赦なく差別を向けます。彼らは主体性を持たず、権力者が決めた「正義」に従うことが当然とされる世界で生きています。
たとえ根拠のないデマや陰謀であっても、権力を持つ者が「彼は悪だ」と言えば、それが真実として扱われる。そういった風潮の中で、エルファバは「悪い魔女」としてのレッテルを貼られる運命にあります。
闇アセンションとしてのエルファバ
通常、物語の中では「闇堕ち」という言葉が使われることが多いですが、エルファバの場合はむしろ「闇アセンション」と言えます。彼女は理不尽な偏見や社会の不条理に抗い、自らの信念を貫くことを選びます。
どれだけ的外れな非難を受けようとも、自分が信じる道を進む。その覚悟を持っているエルファバは、決して堕落した存在ではなく、むしろ精神的に高次へと昇っていく存在なのです。社会から排除されることを受け入れつつも、自分を偽らず、真実を追求する姿勢こそが、彼女の強さの証と言えるでしょう。
光堕ちするグリンダ
対照的に、グリンダは「光堕ち」とも言える道を選びます。彼女は善良で愛される存在として振る舞いながらも、結局はオズの国の体制に従い、社会に受け入れられることを優先します。
大学時代にはスクールカースト最上位の勝ち組として振る舞い、弱い立場の人々を露骨にいじめたり、卑怯な手を使って自分だけが得をするよう立ち回ることもあった。そうして培われた処世術の延長として、彼女は「善良な存在」としての仮面をかぶり続ける。というか、そういう肩書きのおかげで人々の敵意が自分に向かない状況から出ることができないともいえます。
今公開されているのは前後編の前編にあたるようですが、後編ではいかにグリンダが光堕ちのような形に呑まれずに自分らしく生きるかに焦点が当たるのかもしれず、楽しみですね……。
表面的には「正義」とされる側につきながらも、内面では葛藤を抱えている。これは「光の中にいながら、魂を売り渡してしまう」という意味での「光堕ち」と言えるでしょう。純粋な善の象徴のように見えて、その実、社会に都合のいい存在として形作られていくのです。
SNSでいう「キラキラ系」「陽キャ」とされるあり方で自己肯定感を高めることができたと感じて、ただひたすらに中身のない形骸的なハリボテとしてのキラキラであり続け、バエ画像を投稿する無思考なロボットのようになり下がった“素敵な人気者”とされる人たちは、少なからずこれにあたるのかもしれません。
まとめ:真の強さとは何か
『ウィキッド』は単なるファンタジー作品ではなく、現代社会にも通じる深いテーマを持っています。エルファバの「闇アセンション」とグリンダの「光堕ち」を対比することで、私たちは「正義とは何か」「社会に流されることの意味」「本当の強さとは何か」を考えさせられます。
どんなに誤解されようとも、自分の信念を貫く勇気を持てるか。それとも、社会の流れに逆らわず、受け入れられる道を選ぶのか。
エルファバとグリンダ、二人の対照的な生き方を通じて、私たちもまた、自分の生き方を問われているのかもしれません。