スピリチュアル=怪しい? その前提を覆そうとしたヒーラーたち
2010年代、多くのスピリチュアルヒーラーたちが「役に立つスピリチュアル」というフレーズを掲げていました。そこには「日常生活に役立つ」「仕事に生かせる」「恋愛にも効果的」など、さまざまな派生形がありました。
この言葉が広まった背景には、「スピリチュアルは無意味なものではない」と主張しなければならない、ヒーラー側の“弱気”が見え隠れします。「怪しいと思われるかもしれないけれど、実は役に立つんですよ」と弁明するようなスタンスが、業界全体に漂っていました。
「スピリチュアル=役に立つ」アピールに込められた意識
「役に立つスピリチュアル」という表現には、単なるマーケティング以上の意味があります。それは、「スピリチュアルが役に立たないと思われている」ことへの防御反応でもありました。
まるで「スピリチュアルに関わる人々は、社会的に認められていない」という前提があるかのように、「怪しまれても仕方がない、だから有用性を証明しなければならない」という姿勢がにじみ出ています。これは、スピリチュアリスト自身が無意識のうちに「スピリチュアル=怪しいもの」という世間の目を前提にしてしまっている証拠とも言えます。
「役に立つこと」がスピリチュアルの価値基準なのか?
しかし、スピリチュアルは本来、「役に立つかどうか」だけで測るべきものなのでしょうか?
そもそもスピリチュアルとは、目に見えない世界への理解や、人生の奥深さに気づくためのもの。それを「役に立つ」と言い換えること自体が、ある種の自己否定にもなりかねません。
むしろ、「役に立たないからこそ意味がある」ような、もっと自由で深いスピリチュアルのあり方を模索することが、本来の探求の姿なのではないでしょうか。
スピリチュアルの本質とは何か?
スピリチュアルな原則やそうしたものに触れるうえでの人間側の心得、そして古来からの言い伝え(迷信ではなく、真実に根差した叡智としての)は、人類の歴史のなかで重要な役割を果たしてきました。それは、いわば最古の伝統芸能……いや、学問? あるいは生きざまと呼ぶべきものかもしれません。
ヒーラーやインストラクターは、そのバトンを受け継ぎ、次の世代へとつなげる役目を担うべき存在です。その意味では、俗世間の短いスパンでの流行り廃りに流されず、太古からの普遍的なあり方を死守するくらいの覚悟と度量が求められるはずです。
しかし現実には、たまたま最近生まれた新しいヒーリング技法を主軸に据え、それを現代の拝金主義や物質至上主義と結びつけてしまうケースも少なくありません。「霊的なエネルギーで豊かさを引き寄せた」と称しながら、その裏で搾取される途上国の労働者たちに無関心なままで本当にいいのでしょうか?
「役に立つ」という概念自体が時代遅れなのでは?
そもそも「役に立つ」という価値観自体、20世紀の資本主義が偏った形で拝金主義へと変質していった過程で生まれた遺物とも言えます。
お金こそが価値の基準とされた時代、多くの人々は「お金を稼げない人間は無価値なのか?」という恐怖に苛まれました。その焦燥感が、過度な受験戦争や年収の高さを競う社会へとつながっていったのです。
しかし、21世紀に入り、その価値観にも疑問符が投げかけられるようになりました。SNS時代の「いいね」の獲得競争も、その新しい形の一例かもしれません。そしてそれすらも、結局のところ、人間たちが本当の意味で生命の本質を悟れていないからこそ生まれる、愚かしくもけなげな人生模様なのです。
ヒーラーは民衆と同じ場にいるべきではない
本来、ヒーラーは、こうした世俗的な価値観のうねりに埋もれるべき存在ではありません。
完全に悟りを開いて民衆を導く、というのはさすがに古典的すぎるかもしれません。しかし、ヒーラーとは本来、世界の社会的地位や知性・品性を超越した叡智を、現世にもたらす存在であるべきではないでしょうか。
ところが現実には、短期間のセミナーを受け、試験もなくインストラクター資格を取得し、高額なセミナーを開けば莫大な収益を得られるという点に惹かれ、「ヒーラー」を名乗る人々が増えてしまいました。
それが現実ならば、致し方ないのかもしれません。しかし、ここから先は、せめて、もう少し本質を見つめ直す時期ではないでしょうか。
もしこの話を聞いて、「そんなのどうでもいいから金」と思うなら、それはそれであなたの自由です。私もそこまで興味も暇もないので、糾弾するつもりもありません。
ただ、本当にそれでいいのか? 本当にそのありさまでヒーラーを続けるのか?
それが、あなたの未来のカルマにどう影響するのか…… それを理解したうえでの選択なのかどうか、今一度考えてみる価値はあるのではないでしょうか。