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コラム

「未熟な世界」を憐れみ、距離を取るという選択肢

正義や道徳がまかり通る社会の未熟さ

世の中には、「正義」や「道徳」といった名のもとに、抑圧的で暴力的な圧力が存在しています。ある時代や社会、あるいは特定の集団において「正しい」とされる価値観が、その枠外にいる人を縛りつけることは少なくありません。

例えば、「生きていくにはお金を稼がなければならないのだから仕方がない」といった理屈も、一見すると合理的ですが、これは結局、現状の社会の未熟さゆえに生まれている論理です。本当に成熟した社会があるとすれば、そこではもっと自由な選択肢があるはず。つまり、私たちが生きている世界は、まだ「発展途上」なのです。

未熟な社会を憐れみ、上から目線で見守る

「この社会は未熟だから仕方ない」と、あえて上から目線で見ること。これは、一見ひねくれた考え方に思えるかもしれませんが、自分の心を守るための一つの手段になり得ます。

なぜなら、多くの人は「社会がこう言っている」「世間が認めない」といった圧力に恐れを抱き、自分の考えを引っ込めがちだからです。しかし、そもそもこの社会は完全ではなく、人間全体の知恵もまだ発展途上。だからこそ、現状のルールや価値観が「絶対的に正しい」とは限りません。

そう考えると、「まあ仕方ないか。みんな未熟だから」と憐れみの目で見ることで、社会の圧力に過度に影響されずに済みます。

成熟しないなら距離を取るという選択

もちろん、未熟な人たちに直接「君たちは未熟だ」と言ってしまえば反発を招くでしょう。なにせ未熟な人は、自分の未熟さを認めたくないものです。

だからこそ、自分が接する人や環境を選ぶことが大切です。「成熟しないなら距離を取る」「影響を受けない」という選択を意識すること。それが、未熟な社会の中でも自分を保つ一つの方法なのです。

まとめ:未熟な社会に振り回されないために

社会が未熟だからこそ、理不尽な圧力や価値観が存在します。しかし、それに自分を合わせる必要はありません。

「まあ仕方ないか。みんな未熟だから」

そうやって、あえて上から目線で憐れみ、距離を取ること。これが、自分の心を守るための一つの戦略になり得るのではないでしょうか。

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