はじめに:ある出来事から考えたこと
先日、あまり信用していない知人とどうしても行動を共にしなければならない用事がありました。
その人は、悪気があるわけではなさそうなのですが、「約束を守らない → とりあえず謝る」で済ませるタイプ。責任感という言葉からは少し遠い人です。
その日はもう一人を交えて、三人で会話する時間がありました。私は、新しく知り合った人との会話の中で、自然な流れでこんな話をしました。
「人に期待しない」ことで守る自分の心
私は、もうあまり人に期待しないことにしています。
なぜなら、多くの人は「誠実」よりも「気分」や「都合」で言動を変えがちだからです。そして、多くの場合、その変化に対して説明責任を果たす人はいません。
こちらが「どうして?」と問いただし、ストレスを抱えても、何も得られない。だから私は、コロコロと言い分やスタンスが変わる人との人間関係にいちいち動揺しないために、最初から「期待しない」というスタンスを取っています。
期待しなければ、裏切られても怒ることも、恨むこともない。だからこそ、いい加減な人には重要な用事や責任ある役割を任せない。私なりの精神的セルフケアの方法です。
「我が意を得たり」と頷く知人の違和感
そんな話をしていたら、隣で聞いていた同伴者が、まるで自分の言い訳が通ったかのように「うん!うん!」と頷きはじめたのです。
私は正直、唖然としました。
この人にとっては、「他人が信じてくれない」「責めてこない」方が都合がいいのでしょう。要するに、自分のいい加減な言動を他人が割り切ってくれた方がラクで、自ら変わるつもりはない。むしろ「周囲が合わせて当然」と思っている節さえあるのです。
私が話していたのは初対面の方で、その方は困惑しつつも、どうリアクションしていいか分からず苦笑い…。そりゃそうですよね。何とも不思議な空気になっていたはずです。
「変わらない人」への諦めと、私なりの割り切り
改めて思いました。
いい加減な人は、もう「そういう人」なんです。ある程度の年齢で今のままなら、これから劇的に変わることはまずない。きっと何十年もそうやって、周囲に迷惑をかけながら、それでも適当に「すいません」と済ませて生きてきた。
そういう人に期待する方が間違いで、むしろ私たちが学ぶべきは「期待せず、距離を取る術」なのです。
「学びの相手」として現れる人たち
思い返すと、私の人生にはこうした「悪気はないけれど無責任」な人が一定数、常に登場してきました。個人は変われど、属性は同じような人たち。
つまり、私はそういう人たちから何かを学ぶために、この現実を引き寄せているのかもしれません。そして、学ぶべきことを学び終えたら、もう二度とそういう人たちは私の前には現れなくなるのでしょう。
終わりに:彼らから学べることがあるとすれば
無責任でコロコロ変わる人たち。
やることも中途半端で、完成度も低く、責任をとる気もない…。そんな人から何を学べるのか?
それでも、私は学びたいと思います。
「信じないこと」「距離を取ること」「任せないこと」、そして「自分の心を守る術」。
彼らを変えることはできなくても、自分のあり方を整えることはできる。
それが、私にとっての前向きな選択なのです。