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コラム

人がまともかどうか気にしなくなった

誰かを「まとも」と判断する時、その基準は普遍的なものではない。
それは判断する側の価値観や経験に基づく、きわめて主観的な評価に過ぎない。

哲学では、この現象を説明する理論がいくつか存在する。
相対主義(Relativism) は、善悪や正しさが文化や立場によって変化すると説き、特に「道徳的相対主義」は、道徳的判断が社会や個人によって異なることを示している。
また、社会構築主義(Social Constructivism) は、「まともさ」という概念自体が社会的な合意によって構築されたものだと説く。

しかし、私にとってこれらの理論的分類はもはや重要ではない。
むしろ、人間という存在の本質に気づいてしまった。
私たちは驚くほど限られた知識と理解力しか持ち合わせていないにもかかわらず、自分が「まとも」で「分別がある」と思い込んでいる。
この自惚れた生き物たちの群れの中で、各々が自分の物語に没頭し、悪意なく利己的な行動を繰り返している。
そんな状況では、誰かと会話が噛み合い、互いを「まとも」だと感じることすら、確率論的な偶然でしかない気がしてくる。
この視点は悲観的すぎるという反論もあるだろう。
だが、私はもはや自分の「正しさ」や「すごさ」を証明することに興味を失った。
これまでの人生で、そうした追求は常に曖昧な答えで煙に巻かれ、徒労に終わってきた。

世界は進歩していると主張する声もある。
しかし私の目には、若者たちの無知と無自覚な自己中心性が、かつてないほど顕著になっているように映る。
まともな対話が成立する機会は減り、共通の価値観に基づく場の形成さえ稀少になった。
これは単なる加齢による認識の歪みなのだろうか。
年を重ねるほど「伝わらない」「理解されない」という諦念が深まるものなのか。

だが、そんな問いかけにも疲れた。今では「価値観や対話が通じ合える相手は極めて少数である」という現実を受け入れている。
同じ社会に生きていながら、日常で出会う人々との間に感じる理解の断絶は深い。
想像力の欠如、他者への共感の希薄さ、思考や予測の能力の不在。
そしてそれらの欠落を指摘しても、「なぜそれが必要?」という無理解な反応が返ってくるだけだ。

私は時代の潮流から外れてしまったのかもしれない。
日々の会話の中で真実や正義を追求することに、もはや建設的な意味を見出せない。
そこで選んだ解決策は、「他者は理解し合えない異星人である」という前提に立つことだった。
この割り切りはストレスを軽減させたが、同時に深い虚無感をもたらした。
今や私は、野生動物のように慎重に、傷を負うことなく生存し続けられる方法を模索して生きている。自分の本質を隠しながら。
まるでスパイのように、真の思考を秘めたまま日常という舞台で演技を続けている。
皮肉なことに、この演技は社会適応能力を高めてくれた。
とはいえ、このパラドキシカルな適応の果てに得られた処世術は、果たして魂の成長につながっているのだろうか。

しかし、この気づきは必ずしも暗い結末だけを示唆しているわけではない。
他者との完全な理解は望めないかもしれないが、それは逆説的に、私たちを自由にしてくれる。
誰かに「まとも」だと認められる必要もなければ、誰かを「まとも」だと判断する必要もない。
その代わりに、偶然出会った共鳴できる魂との対話を、より深く味わえるようになった。
それは、雑踏の中でふと耳に入る好きな曲のように、予期せぬ場所で見つかる小さな歓びだ。
混沌とした銀河の中で、稀少な惑星間交信を楽しむような感覚で。
結局のところ、「まとも」な世界を求めすぎることこそが、私たちから自由を奪っていたのかもしれない。

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