はじめに:常識が崩れる音が聞こえる
「お金がすべて」なんてフレーズ、昭和〜平成の香りが残る時代にはよく耳にしました。でも、令和の今、この“香ばしい常識”はだんだんと通用しなくなってきています。
高騰する家賃、買い占めで消える日用品、不条理な値上げに見舞われる私たちの暮らし…。お金を払えば何でも手に入るという“当たり前”が、もはや幻想になりつつあります。
物の値段=価値ではない時代へ
「希少価値が上がったから値上がりした」なんて言われても、実感としては腑に落ちません。裏では誰かが恣意的にコントロールしている気もしてしまう。
お金の価値も、モノの価値も、どうやら本来の基準からズレはじめている。そんな時代に、私たちは生きています。
インフラだって“当たり前”ではない
水が出る。電気が使える。ごはんはコンビニでいつでも買える。
――でも、それがずっと続く保証なんて、どこにもありません。便利さは脆さの裏返しであって、それがどれほど“人の手”に依存して成り立っているか、気づいている人はまだ少ないかもしれません。
人間の暮らしは、もっと“本能的”でいい
少し視点を変えてみましょう。
食べ物を得ること、移動すること、寒さに耐えること…人間はもともと、それを自分の身体ひとつでこなしていました。
私自身、最近はできるだけ階段を使うようになりました。「健康のために」ではなく、「それが自然だから」。やってみると意外と平気で、体力もついてくる。むしろ頼らないほうが心身ともに元気になる実感すらあります。
「足りない」は豊かさの入り口?
便利を手放しても、苦しくない。むしろ、余計な消費も減って、心も体も軽くなる。
そう気づいてから、無理せず自然体で暮らす選択肢が増えました。
暖房もティッシュも、以前よりずっと使わなくなった。食べ物も、最低限で十分満たされる。
「そんな生活つらくない?」と思うかもしれませんが、意外とそうでもないんです。むしろ、妙に自由で豊かですらある。
終わりに:文明の後退?それとも目覚め?
蛇口をひねれば水が出る。ボタンを押せば温まる。レジに行けばすぐ食べ物が手に入る。
そんな“人工の奇跡”の中にどっぷり浸かっていた私たちは、もしかすると、そろそろ目を覚ます時なのかもしれません。
不便を受け入れ、自然と調和する生き方に少しだけ軸足を移すことで、
「ちゃんと人間として生きる」ことの輪郭が見えてくるのではないでしょうか。