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コラム

「現実的」になってきた自分を、ちょっとだけ誇らしく思う最近の話

はじめに:ちょっと現実的になったかもしれない自分へ

フルタイム勤務のサラリーマンふぅの生活を送るようにあえて自分を「社会人リハビリ」するようになって最近ふと、「悪い意味で現実的になってきたのかも?」と思うことがあります。
よくも悪くも、自分の目の前の生活というか仕事というタスクのことしか考えなくなってきている。
前よりも生きている時間の質はカッチリしてきているものの、ただ自分1人の暮らしをなんとかするだけに視野が狭まってきている感じもあるのです。

この、視野が狭まってきているというのが、それこそ宇宙的な規模で意識を拡大して生きていてこそというスピリチュアルヒーラーとしては致命的というか、だったらスピリチュアルのために俗世間の会社勤めを辞めた甲斐までもがなくなってしまうのでは、という戸惑い。

でも、必ずしも悪くないことなのかもしれないと思い直すことができてきている最近の感慨を自己満足的に書いてみようと思います。


幼い頃から始まっていた“強制的”な日々

思えば、私(たち)は物心ついた時から社会のレールに乗せられてきました。
幼稚園、学校、会社……知らぬ間に始まり、当然のように続く“毎日”。
私はそのルールの外で一度生きてみたかった。社会の「決まりごと」から自由になったら、自分はどうなるんだろう?と。
というか、スピリチュアルに特化したプロというか、仕事にするかどうかは別として専門に霊的な分野を歩もうとする人間が会社勤めのルーチンと時間・お金の制限に囚われたままでどうする?という危機感。
最低限の義務としてそこから脱却しておくのは「お作法」であり「嗜み」であり「当然、超えているべきハードル」でもあるだろうと思っていたのです。
30歳で独立してまさかうまくいくようになる前、20代後半まではそれは一生超えられない高い分厚い壁に感じられていましたし。


30歳で独立。「自由」という名の実験

30歳でヒーラーとして独立した私は、仕事面ではプロとしてヒーラー業だけで食っていく覚悟を決めつつ、
プライベートでは「かっちりした生活」や「無意識の思考パターン」から自分を解放しようとしました。
いわば、実験のようなものでした。
「いったん自由を体験してみたい」。
その願いを叶えたかったのです。


実際に自由になってみた結果…

思い込みが現実を形作る。これはスピリチュアルな視点から見ても真理です。
実際、縛りから解放されたことで、心や現実にゆとりが生まれたのも事実。

でも同時に、「なんでもできる」は「何もしない」につながる現実も体感しました。

例えば、夏に「いつでも行ける」と思っていた近所のプール。
気がつけば一度も行かないまま、夏が終わっていた——そんな経験も。


再び“かっちり”へ。原点回帰の試み

自由の中に身を置いたあと、私はあえて「会社員的な生活」を自分に課してみることにしました。
これは大正解でした。

忙しいからこそ時間を有効活用する知恵が育ち、行動力も上がる。
日々に張りが出て、結果として趣味や遊びにも積極的になれました。

まるで、遠距離通学をこなしていた中高生時代のような、自分なりに日々を全力で生きている感覚が戻ってきたのです。


クロックアップした自分の“脳と生活”

時間が限られていると、人は瞬時に「今できること」を見抜き、実行に移すようになります。
PCでいうならCPUのクロック数が上がったような感じ。
これは非常に大きな収穫でした。

すると自然と、食事もシンプルに。お金の使い方も効率的に。
部屋もきっちり整って、行動の質もぐっと上がっていきました。

この「ドミノ倒し」のような好循環は、自分でも驚くほど。


やっと“大人”としての人生が始まった

今なら、会社に勤めなくても、自律的にこの生活を続けていける。
そう確信できるようになったのです。

そして、フリーになってからの十数年が、まるで幼稚園に入る前の、束縛されない赤ちゃん時代だったのだと気づきました。
その時期は、自分を癒し、育て直すために必要不可欠だった。

人生100年時代。
ようやく50歳手前で準備が整ったことを、「遅い」ではなく「間に合った」と受け止めたい。
今はただ、自分の本能とセンスに拍手を送りたい気持ちです。


自由と規律、その間で揺れるときに

「自由になりたい」と願うこと。
「きっちりした生活に戻るなんて嫌」と思うこと。
どちらも人として自然な感情です。

でも、いったん自由を味わったあとに自ら選ぶ“ちょっとかっちりした生活”は、
誰かにやらされるものとはまったく違いました。

自分を信じて、自分で選んで、自分の足で立つ。
そんな生活は、どんなライフスタイルであっても“主体的な人生”として感じられるはずです。

もし今、自由と秩序のはざまで揺れている方がいたら——
どちらか一方に決めつけなくても大丈夫。
「揺れる」こと自体が、自分と向き合っている証拠なのですから。

この文章は、以下のプロンプトをChatGPTに清書してもらったものです。

以下の内容をブログにしてください。タイトルと小見出しもお願いします。

悪い意味で現実的になってきてしまったのかもしれないと思いつつ、それはそれで良いことなんじゃないかと思っている私の最近

若い頃、いったん社会の強制的なルールから無縁でまっさらなフリーの状態で生きたらどうなるかを真剣にやってみたくてもがいていた私。
物心ついたら幼稚園で、入園式はたまたまのお楽しみイベントかなと思っていたら「明日から毎日いくんだよ」とシレッと親から告げられて「え?」と愕然としたほど。そこから学校、就職と、基本的には強制的に従わざるを得ない社会のレールというものが敷かれており、よほど大人になった後で勤め人にならない選択でもしない限りは老後まで毎日かっちりした生活を余儀なくされてしまいます。
30歳でヒーラーとして独立したとき、ヒーラー業をプロとして仕事にして専業でちゃんと食べていけるようにするという決意とは別に、プライベートではこれまで続いた毎日かっちりの生活サイクルやそこに無意識に縛られた思考パターンでいるであろう自分自身を解放しようとしたのです。

これはある意味では大正解で、よく億万長者インフルーエンサーが言うように、思い込みに縛られるとその制限ある思考が制限や欠乏ある現実をマニフェスト(具現化)してしまってカツカツな生活のままだよ、というのは霊的摂理からしても正解なのだということを身をもって知ることもできました。

ただ、それも私にとっては「どうしても手に入れたいもの。いったん手に入ったら一生ずっとそうしていたいこと」ではなく、実際どうなんだろうと一度はやってみたい、知ってみたい実験感覚だったのです。

もちろん、気が済んだからといってカツカツで不満だらけの嫌な学校生活、会社員生活といったものに戻りたいとは思いません。し、ただそこに戻ってしまうとしたら人生としては退化同然だし、要は人生をサボってライフステージが降格してしまったことになる。

ただ、なんにも日頃の生活に制限がないというのは、油断するとかえってダラダラする要因にもなるな、とも実感しました。
ようするに夏休みのあのダラダラになっちゃうわけですわ。

かろうじてヒーラー業という仕事が自由業ながらあったので、自分でセミナーの予定を立てたりセッションを依頼されて応じたりといういい意味でのメリハリと「しっかりしなければいけない」強制力があったこともあり、どうしようもないダメな人というふうにはならなかったのですが、それでもいくらでも時間やお金があるからいつでもなんでもできるという状態は、結局なにもしないことにつながりました。
ロシア民謡の1週間という曲がありますが、1日に1つしか用事をしないのかよ!と子供の頃につっこんでいたけれど、実際自分がそういう生活になってしまいました。
結局、夏場に近所のプールにも「いつでも行ける」と思っていたら一度も行かずに夏が終わってしまったという始末。
会社に勤めている頃、せっかく真夏の昼間にいい天気なのにどこにも遊びに行けずコンクリートの殺風景なオフィスで過ごさなければいけないなんて、と嘆いていたのをいくらでも解消できる境遇が成立したのに、あまりアクティブにならないどころか、ぐうたらの極みになってしまった。

そこで原点回帰を目指してわざと、サラリーマンふうのカツカツを自分から取り入れ直したのがここ数年。

結論としては大成功だったと思います。
単純に通勤や勤務を通じて体力と精神力が上がったし、忙しかったり時間に制限があることで残りの時間をいかに有効活用するかの工夫度が上がった。そうやって結局、毎日自由にできる日々よりも、いろんな用事や自発的な趣味・遊びの活動も盛んになった。

なにより頭の回転、コンピュータでたとえるならCPUのクロック数が大幅に上がりました。
ほんの数分あるだけで「あと、これとこれとこれをできる」と瞬時に思いついて体が動き、しかもすべての用事を済ませてなお時間が数十秒あまってほっと一息つけたりもする。(そして、数十秒もホッと一息つけば心身ともに緊張がほぐれるようになった!)
単純に手際がよくなったというのもありますし、日々の行動実績で効率もあがり自信もついたのです。

そしてやっと、自分が多忙ながら私生活も充実して自分なりの人生を主体的に生きることができている実感を持てていた中高生の頃に感覚が戻ってきた。

ああ、この感じ。

毎日学校に遠距離通学して休みがないという日々だったけれど、その強制的な用事をこなしている間が思考停止で奴隷状態なわけじゃなく、その最中も自分は自分として生きているんだ、と。

さらに、時間に対してきっちりしてくると、自然とお金の使い方もきっちりしてきたのが思わぬ副産物。
ちゃんと毎日のフルタイム勤務をこなすために、ということで昼ごはんも眠くなるほど食べなくなり、外食をやめて自炊した弁当持参に切り替え。
業務終了後も、カロリーがありすぎる量のドカ食いや甘いものを食べると体がなまって思うように動かなくなる実感値から、暴飲暴食をしなくなった。それでお金が浮いた。

そうすると睡眠時間やその質にもこだわりが出て、家の中でもきっちり質の高い行動を、、、となる。
それが部屋の掃除というか、あるべきものがあるべき場所に収納されており、余計なものが散らかった状態はNGという感覚につながる。

ドミノ倒しのように、自分が全方向的にしっかりしていくのを感じたのです。

これでようやく、会社とフリーランスながらもフルタイム勤務の契約をして会社員ふうの生活サイクルを送るという今の過ごし方を、これからはどこかと契約して勤務せずとも自律して継続していけそうだなという確信を得ました。

同時に、ヒーラーとして独立してからの十数年を、まるで幼稚園に入る前の赤ちゃん時代であるかのように何の予定による縛りもなくのびのびと大人になって過ごせたことは、その時期の私の長年の心身の傷を癒す意味ではそれはそれで欠かせなかったとも思っています。

人生100年時代と言われる中、50歳手前で前半が終わろうとする頃になって準備が整うというのも遅い気がしますが、どうやら人間的な意味では成長が遅いペースなのであろう私がそれでも、これだけせわしない現代社会において、焦らせて急かすような世間の波を自分でシャットアウトしてよくもまぁ十数年もゆっくり「自分を育て直す」ことを第一優先に過ごせたものだなぁ、と自分の生き方へのセンスの良さと本能etcに自画自賛。

やっと大人としての人生を始められそうです。
それも、奴隷感覚や、やらされ感といった弱者で支配される側だと自分を思い込む被害者意識的なつらさのないメンタルと思考パターンで。

時間はかかったけど、こんなに贅沢に大人がのんびりゆっくりできるのって、うまいこと専業主婦になれた人くらいなのかもしれないことを考えると、独身男性でありながら誰の援助を受けるでもなく自己責任と経済的自立も自分ひとりで成し遂げてよくもまぁこんなしっかり自分を育てられたものだなぁ。

※ここで終わると日記になるので、読者への提案・提言を、わざとらしくなく、お仕着せがましくもなく綺麗に添えて終わりにしてください。

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