要約:
「男らしい」との指摘を偏見と感じたが、冷静に受け止め成長を実感。他者の無理解を俯瞰し、自身の人生課題として受容。男性としての社会的苦境や誤解を克服する自己肯定の歩みを振り返り、自分を称賛した。
ポイント:
- 偏見と対峙:ペア演習で「男らしい」と評され、偏見や誤解のある指摘に冷静に対応した。
- 自己成長の確認:過去の葛藤を超え、男性としての役割や偏見を受け流す成熟した対応を実感。
- 俯瞰的理解:他者の未熟さや偏見を受け入れ、感情的反発ではなく学びと感謝に変換。
- 人生のテーマ:男性としての立場や社会的期待を克服する課題を自己成長の糧とした。
先日、受講した某ヒーリング講座で、エネルギー的な特徴を相手に告げるという演習がありました。
私は50代後半〜60代とおぼしき女性とペアを組んだのですが、その方から
「男らしい」
と指摘されました。
これは私の印象ですが、その世代の方がイメージする、男尊女卑社会でふんぞりかえって偉そうにしているという良くないイメージで言われている感じがしました。
実際、補足コメントでも
「いたずらっ子。まさに男の子って感じ。徳としては優しさと慈愛が欠けているように観える」
と。
これも私の印象ですが、
「もっと女性など周りの他人に細やかな気遣いをして、男らしさむきだしで荒々しいマナー違反な有様を改めるとよい」
という主張がこもっている気がしました。
ちなみに優しさと慈愛が欠けている(ので男らしい)というその方の醸し出すニュアンスとは裏腹に、ダウジングロッドで確認すると私には優しさと慈愛が欠けてはいない(どころか満ち溢れている)という結果で、それを見たときの相手の女性の「まさか!信じられない!悔しい!納得いかない!」という表情ときたら。
私側の勝手な言い分を言っていいなら、その方はいろいろこのコースを受けるにしては……という部分が目立ち、しかもご自分では自身のいたらなさに気づいていないふう。
できていないのに「これでも良いのよね?だってシータは最高最善だから!」という、いわゆるあるあるな有様だったので、おせっかいかもなと思いつつも、
「今の(ダメな)結果は、あなたがこれをできていないということですよ。なんでも最高最善といってごまかさず、ちゃんと結果が出ているかどうかを受け止めて、できるようになっていこうと捉えるのが良いみたいですね」
と穏便な口調でペアを組んだ際などにはお伝えしていたのです。
それを要するに「優しくない。慈愛がない」と受け止めたのでしょうね。
そこで欠点を告げる演習が来たものだから、ここぞとばかりに(おそらく創造主につながってメッセージを降ろすのではなく頭で考えた思考で)ぶちまけたのでしょう。
なのにダウジングロッドでは告げたことの真反対の結果になってしまって悔しい、というところでしょうか。
(まさに、そういうところやぞ、と思います。人間の器がミニマリストなのでしょうか。シータの演習にかこつけて相手に言ってやりたいことを言ってニタリと笑うその精神性というかの方がなかなかだなと私は思ってしまうのですがどうなんでしょう)
まぁ、他人のことはどうでもいい&シータヒーリングの上位クラスのインストラクターといえどだいたいこんなもんなのが平常運転なのでこのへんで。
要は、酷い偏見のイメージで「男らしい」と言われた私が、そのカチンとくる感じにもグサッとくる感じにも耐えて、鷹揚に笑って「そうですか」と穏便な返事で会話を受け止めることができたのが自分としてはすごい成長だなと思いました。
あえてここでは細かく書きませんが、私は今回の自分の肉体が男性であるということや、いわゆる「ありのまま」に振る舞った際に世間全般の標準?の男らしさよりもだいぶギンギンに男らしいようだということは自覚しつつもそのことに釈然としていませんでした。
とりわけ若く幼くなればなるほど当時の自分は、ただでさえ自分の性別を受け入れることができずにいるのに、そこに求められる社会的な性役割といったもの、なにかとネガティブイメージで悪く言われやすい風潮etcをすさまじい誹謗中傷と虐待に感じてひたすら傷ついていたのです。文字通りメソメソして「男であることが嫌だ」とずっと思っていました。
それを「癒す」といっても、正直いって今でも男性という性別を肉体が持っていることや、社会では昭和時代よりはマシになってきたとはいえ、まだまだ粗野で野蛮な男性イジメのような思考を持つ人の放つ香ばしさにうんざりすることが皆無ではありません。
でも、そういった「男であるという、嫌で不利な立場」に置かれて肉体の性別とそれゆえの扱われ方(の酷さ)に苦しめられる境遇に陥りやすいこともふまえて、自分が選んだ今回の人生の環境設定なのだということを頑張って受け入れて納得する癒しの道のりを十数年かけて歩んできたわけです。
そう、男であるがゆえに、場合によっては酷い偏見や差別をされ、肩身の狭い立場に追いやられ、冷遇され、不利に扱われる。
そこをどうするか、がいわば私の今回の人生の学びでもありチャレンジでもある、と思えるところまでは来ました。
同時に、男であってもたとえば女性向けとされる服や髪型、メイクをしてもいい……というかメイクやエステは男性だって女性と同じく楽しんでいいという世相に私がこの世界を変えてきたわけです。
昭和の男みたいな、勝手に謎の無敵イメージ(どんなにつらくても黙って耐えてみんなの分まで縁の下の力持ちで泣き言を言わないなど)を押し付けられることなく
「いやです」
と普通に主張して通し、女性と同じようにラクで自由に無理しないライフスタイルを堂々と満喫する。
たまに、時代錯誤なアレな男性観で私のことを濡れ衣を着せるかのようにオトコというモンスターに仕立て上げて悪く言おうとする女性などに遭遇して口撃されるとしても、ノーダメージで受け流す。
そうやって、男であるという、この上なく不利な立場を自分の生き様で克服していく!!!!!
そのマイルストーンとして、酷い意味合いででも「あなたは男らしい(withニターッと欠点を指摘して笑う意地悪)」という他人からの指摘を、清濁併せ飲んで笑顔で「そうですか」と受け止めることができるところまでは来たわけです。
私、偉い!
私、凄い!
本当に本当に、自分を褒めてあげたいです。
なにより、たとえばギャンギャン反論するといった一見気分がその時だけはスカッとするような応対をするより、清々しく誇らしい気持ちになれました。
都合よく言っていいなら、そういう形でもたらされた霊的成長の定期試験としてのイニシエーションに合格できた心地です。
同時に、ここまで成熟した自分にとってはもはや、理想的なのであろう応対をすること自体は造作もなく自然に消耗せずにできてしまうものなんだなという自己効力感も高まりました。
し、こんな造作もなくちゃんと応対する程度で、ニターッと笑って人のことを男らしいと貶してくるような残念な年上女性など一瞬で退けて一件落着にできるほど自分が強いのだということも実績で確認&確信できました。
その瞬間、これまでの最低でも数千年に及ぶ人類の歴史で、男たちは折々に、女性など「わかってない」人たちから無理解ゆえのこうした酷い扱いを受ける機会が無数にあり、そこで大人になってグッと呑み込んで波風を立てず自分を抑圧するでもなく上手に受け流すというか「ダメだこりゃ」と匙を投げることで被害者としてダメージを受ける立場に陥るのを回避する叡智を培って発揮してきたんだな、ということを直観しました。
いわば、男性たちの培った集合知に遂に自分もつながることができた心地です。
さらに、男のことを不潔だの犯罪者予備軍だの性欲オバケだの、年齢がいったオジサンは生きてるだけで公害だのと常軌を逸したレベルで叩こうとする女性など別属性の人たちが、いかに本人たちの傷とその痛みを自分自身の中で解消できずに外部に漏らして八つ当たりしている幼稚で残念な有様ゆえか、も急に俯瞰して観えた心地がしました。
たしかにこんな残念ならしょうがないよね、という気持ちにも自然になりました。
そうやって、どうしようもない残念な人の残念さで、「男なんてサイテー!」というとばっちりが世の中にあちこち流れ弾のように飛び交っているのだな、という世相までもを俯瞰できた心地で。
そしたらもっと、性別のことだけでなく、あらゆる側面で、自分にとって重大なことを他人がぜんぜんわかってくれず軽くあしらってくるとか、認識や知識、感性など諸々の違いゆえに「わかってもらえない」ことが世の中にはある方が普通だということも、がっかりすることなく「しゃーないやんな」と受け止めることができるようになりました。
かくいう私だって、どこかの誰かにとって大事なことをそうとは知らずに軽んじてしまうことも多々あるものなのでしょうし。
「あなたは男らしいからダメよ(もっと男らしさを抑えないとね!)」
なんて残念で無知蒙昧なアドバイスをしちゃう女性の発言に傷ついてる場合じゃないのです。
そういう残念な人は残念なんだから、しゃーない。
その人が残念でなくなるためには本人が気づくしかないし、おそらく一生かかってもその女性は、意地でも男性をちゃんと見て自身の認知の歪みを解消しようとは思わないものなのでしょう。
(蛇足かもしれませんが、まさにその世代の男性あるあるな、いい加減で無責任なくせに上から目線であれこれ命令してくる系のダメ男性を夫に持ち、虐待的にひどい扱いをされてきている様子がうかがえましたが、その鬱憤を私にぶつけられても知らんがな、なんですよ)
その女性との会話自体は1分たらずだったのでしょうが、こんだけ長い文章にできるほどの感慨が私の中には湧いたということですね。
その女性がそんなザマなのは私の責任ではないし、私がその女性を啓蒙啓発する義務・義理があるわけでもない。
その女性はその有様で今後も生きていき、行く先々でここに述べたような発言をポンポン悪気なく発して、それゆえに他人から嫌われたり好感度を下げたり、あるいは「だよね!」と意気投合して男の悪口を言っていい気になる女性同士では仲良しこよしで楽しくハッピーに盛り上がったりして生きていくのでしょうし。そしてそれは私とはぜんぜん関係ない他人の人生だからどうでもいい。
私は私で、自分が遭遇した出来事はすべて自分の第一希望で叶えたものでありこの宇宙で今このタイミングではベストな学び・チャレンジ課題が現実化してきているのだという原点を忘れず、自分はここから何を学べるかに注力すればいいわけです。
その「装置」として機能してくれた、ペアワーク相手の女性には感謝感謝、ですね(☜ほら!なんて人間としての器の大きさ!)
そんなこんなで50歳近くなってもまだまだ私は健全にこうして霊的にも精神的にも人間的・人格的にも成長していけるものなんだなぁと、これまで以上に自分で自分を褒めまくって大好きになりました。