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コラム

「うまく生きる」その先にある虚無と、そこから見えてくる本当の問い

スピリチュアルが教えてくれた、物理現実で通用する“うまいやり方”

スピリチュアルヒーリングを通して学んだのは、単なる癒しや内面の安らぎだけではありませんでした。
むしろ、この物理現実をどう生きれば物事が通るのか——どうすれば人に理解され、動かすことができ、社会の中で通用していけるのかという、極めて実践的な“現世攻略法”のようなものでした。

そのノウハウを身につけ、実際に使いこなしてみると、驚くほどサクサク物事が進む。
まるでRPGで主人公のレベルを“カンスト”したかのような、ある種の無敵感すらあります(もちろん、それが小市民的なスケールの中の話であることは百も承知ですが)。


でも、それで本当に満足しているのか?

スムーズに生きられるようになった今、ふと立ち止まって考えることがあります。

うまく生きるって、つまり“自分のやりたいこと”を脇に置き、“この世でうまくいく方法”を選び続けるってことなんじゃないか?」

自分のやり方が通用しないと学び、泣く泣く別の“正解”をなぞる。
それによって得られる成果の裏側には、自分の本心を押し殺し続ける苦しみがじわじわと積もっていく感覚があります。

うまく生きられるようになればなるほど、
自分のやり方では通用しない」という現実が、それこそ人格否定のように、静かに、確実に突きつけられるのです。


「自分らしさ」をどうやって捻じ込むか?

ここで思うのは、たとえ“通用率”が少し下がったとしても、
あえて公式どおりではない「自分のテイスト」を捻じ込んでいけないだろうか、ということ。

100点の正解ではなくても、95点でもいい。
自分らしさをひとさじ混ぜた現実のつくり方を模索することで、
これが自分の人生だった」と、最期にドヤ顔で言えるような——そんな“生きた爪痕”を残せるのではないか。

もちろん、それも一つの“あがき”かもしれない。
それでも、完全服従のように「この世のルール」に従って生きるだけでは、どうしても芸がない気がするのです。


心理学・研究にも見られるこのジレンマ

このような葛藤には、心理学的にも一定の裏付けがあります。
たとえば、「自己抑制のパラドックス」(self-control paradox)という研究領域では、
「社会的に望ましい行動を選び続けることが、長期的に見ると自己肯定感を蝕むリスクがある」ことが指摘されています。

また、アメリカの心理学者バウマイスターの研究では、
“自己規律を守る人ほど、人生の満足度が高い”とされつつも、同時に“本当の自分を見失いやすい”
というジレンマも観察されています。


せっかく「うまく生きられる」ようになったのだから

せっかくここまで来たのです。

この世界をうまく渡れる技術を得た今、
それに自分の魂をすべて明け渡してしまうのではなく、
どこかで折り合いをつけること。

それができれば、人生の最期に、
「自分は自分のまま、この世界と向き合った」と言える気がします。

それがこの現世で、ほんの少しでも「自分らしく」生きた証になれば。
それでいい。いや、それがいいのかもしれません。


▼ まとめ:うまく生きる ≠ 自分を捨てること

  • 「現実でうまくやる」スキルは価値あるもの

  • ただし、それだけに従っていると自己否定感が募る

  • 少しでも「自分らしさ」を入れ込む工夫が、生きた証になる

  • 最後にドヤ顔できる生き方は、公式の奴隷ではなく、創造的プレイヤーであること

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