子供の頃から感じていた違和感
私は子供の頃から、一見正しいはずのルールや規則のことを厳しく問い詰めるタイプの人が苦手でした。その人自身が自分にも厳しく、きちんと結果を出していたとしても、どうしても距離を置きたくなるのです。
当時の私は、それを「自分がいい加減な性格だから、真面目な人が苦手なのだろう」と単純に解釈していました。真面目で、ルールを守る人たちに対して、私が怠惰な部分を持っているから反発しているのではないか。だから、自分も“ちゃんと”しなければならないのではないかと、どこかで思っていたのです。
50歳を目前にして気づいたこと
年齢を重ねるにつれ、私はこの苦手意識の本質が別のところにあることに気づきました。きっちりした人たちは、その分だけ自分の世界を厳密に作り上げています。その世界観は、まるで精巧なプラモデルのように固定化されているのです。
もちろん、彼らはその「箱庭」のサイズで実現する現実を理想としているので、私がどうこう言うべきことではありませんし、善悪を評価するつもりもありません。ただ、私自身がその箱庭の中に収まろうとすると、自分を縮小せざるを得なくなることに気づいたのです。
他人の箱庭に自分を当てはめない
私が苦手だったのは、「きっちりした人そのもの」ではなく、「その人が作る小さな箱庭の中に自分を当てはめようとすること」だったのです。
私は自分の存在を縮小してまで、誰かが作り上げた世界観に迎合したくはない。だからこそ、昔から「これは正しい」「こうすべき」と決めつける人に違和感を覚えていたのだと、今になってようやく腑に落ちました。
自分の現実を自分で作る
今の私は、誰かが作った箱庭に逃げ込む必要はありません。自分で自分の現実を作り出せるからです。ただ、それはそれでまた一つの箱庭にすぎないのかもしれません。
おそらく、私の作る現実も、もっと大きな視点で見れば小さく見えるのでしょう。そして、私の作った箱庭に収まりたくないと感じる人もいるはずです。それでも構いません。それぞれがそれぞれの現実を作り、納得のいく人生を歩むしかないのです。
すっきりした気持ち
こうして振り返ると、私は子供の頃から「なぜ決めつける人が苦手なのか」をずっと考え続けてきたのかもしれません。そして今、その理由がはっきりしました。
「これは正しい」「これは間違っている」と断言することの窮屈さに違和感を覚えていたのです。ようやくそれが言語化できて、心がすっきりしました。これからは、自分の箱庭を自由に作りながら、それぞれの価値観を尊重し合える関係性を大切にしていきたいと思います。