はじめに
現代は情報の洪水の中にいます。生成AIをはじめ、新しい技術やトレンドが次々と生まれ、私たちは「乗り遅れてはいけない」「知らないと不利益を被る」といった焦りを抱えながら、最新情報を追い続けています。
確かに、新しい知識やスキルを学び、時代の流れに適応することは大切です。しかし、それだけで本当に良いのでしょうか?実は、時代を超えて読み継がれる「古典」にこそ、普遍的な知恵が詰まっており、現代を生き抜くための強力な武器となるのです。
情報の波に翻弄されるリスク
SNSでは、信頼できるニュースメディアであっても、次々と新たな情報が発信されます。それらにいち早く対応し、最新のスマートフォンを買ったり、新技術をいち早く習得したりすることは確かに重要です。
しかし、それらの多くは「一時的な流行」にすぎません。長い目で見れば、それに乗らなくても大きな影響はないことも多いのです。それにもかかわらず、多くの人が次々と変わる情報に振り回され、「これが正解だ」「いや、こっちのほうがいい」と右往左往する様子は、まるで情報社会の奴隷であり、混乱した衆愚主義のカモのようにも見えます。
変わらぬ本質を学ぶための古典
そうならないために、数百年、あるいは数千年にわたって読み継がれる「古典」に目を向けることが重要です。例えば、ユダヤ人がタルムードを学び、それを基盤にビジネスや政治で大きな影響力を発揮しているように、人間の本質や社会の本質は時代が変わっても大きく変わりません。
その本質を理解することができれば、流行に振り回されることなく、時代がどう移り変わろうとも本質的な判断を下す力が養われるのです。そして、それこそが古典が今なお読まれ続ける理由なのです。
古典を読むことのハードルと価値
とはいえ、古典は分厚く、難解で、退屈に思えることも多いでしょう。多くの人が読まないし、実際に読みたいとも思わないかもしれません。しかし、だからこそ価値があるのです。
誰もが簡単に手に入れられる情報には有用性の限界があります。誰でもすぐに手にいれることができて意味がわかりやすい時点で、その程度。
しかし、読みにくく、難解であるがゆえに、多くの人が手を出さない古典には、圧倒的な知恵が詰まっています。それを読み解き、単なる知識として蓄えるだけでなく、実生活に活かすことができたとき、その人の強みは計り知れないものとなるでしょう。
古典を学ぶか、流行に流されるか
「でも、会社で働くだけだからそこまで頭を良くしなくてもいい」 「家事と子育てが忙しくて、それどころではない」 「遊園地で遊んでSNSに写真を載せて『いいね』をもらいたい」
こうした考えを持つ人もいるでしょう。それを選ぶのも自由です。しかし、たとえ一冊でも哲学書を読んだからといって、人生が劇的に変わるわけではありません。ましてや「とりあえず読めば何かいいことが起こる」といった受け身の姿勢では、古典の本当の価値を理解することはできません。
結論──豚に真珠か、それとも智慧を手にするか
古典を学ばないという選択肢もあります。もしかしたら、それは「豚に真珠」なのかもしれません。しかし、古典を学ぶことで得られる知識や智慧は、一生ものの財産になります。
「真珠は不要」と考え、目先の流行を追い続けるのも自由ですが、私はそうはしません。それぞれの選んだ道を楽しみながら歩んでいきましょう。