成功が「ただそうあるだけ」になった日
かつては、何かを成し遂げたときの達成感が大きな喜びだった。できるようになったことが増えれば増えるほど、嬉しくなったし、自分が成長している実感もあった。けれど、ある時を境に、その感覚が薄れていった。
何かが「うまくいく」というのは、結局のところ「そういう手順を踏めば、そうなる」というだけのことだった。要は、成功は必然的な結果として現れていただけで、そこに特別な意味はなかったのかもしれない。やろうと思えば、だいたいのことはできる。すると、「できること」に対する喜びは減り、成功そのものに価値を感じなくなってしまった。
成功も失敗も、ただの「そうある現実」
スピリチュアルな視点では、何かが成功したか失敗したかというのは、単に現実がそうなったというだけとされる。確かに、その考え方は普遍的な真実なのかもしれない。
確かに、私は昔よりも多くのことをそつなくこなせるようになった。成功するための方法が見え、それを実行すれば想定どおりの結果が出る。その積み重ねで、「成功」は特別なものではなくなった。成功を喜ぶというよりも、「ああ、またか」と淡々と受け止めるだけになったのだ。
でもこんな虚しい気持ちが、霊的な悟りに近づいたゆえと喜んでいいのだろうか。
失敗が恋しくなる現象
時々、わざと大失敗してみたくなる。いや、大失敗まではいかなくても、あえて手を抜いて小さなミスをしてみることがある。
成功ばかりが続くと、失敗が珍しくなり、むしろレアリティを感じるようになる。そして、実際に失敗したとき、「悔しい」とか「落ち込む」という感情は湧かない。むしろ、「ああ、久しぶりにこういうことが起きたな」と懐かしく思うことすらある。
これが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。ただ、「成功すること」に対する熱意や感動が薄れてしまったことは間違いない。
成功し続けることを余儀なくされる現実
とはいえ、この世の中で生きる以上、ある程度の成功を維持し続けなければならない。健康を保つこと、経済的に安定すること——それらは、ある水準以上の「うまくいく状態」を継続しないと、生活が苦しくなってしまう。
そして、よく考えてみれば、一日を無事に過ごせること自体が成功ともいえる。戦争や紛争のある地域では、それは決して当たり前ではない。そして、日本でも事故や病気、自殺で命を落とす人は決して少なくない。そんな中で、ただ生き延びること自体が「成功」と呼べるのかもしれない。
ただそう捉えると今度は、成功は達成の喜びではなく「失敗するわけにいかない努力義務」と化してしまう。
それでも、「飽き・しらけ」は油断すると人の懐に忍び込む
積み重ねてきた能力を最大限に活かせる今の自分は、おそらく過去の自分と比べても「最もハイスペックな状態」にある。でも、そのことに対してワクワクすることはなく、むしろ飽きを感じている。
「成功することが当たり前になってしまった状態」。
それは贅沢な悩みなのかもしれない。でも、成功を続けることが求められるこの世界の仕組みに、どこか虚しさも感じている。
飽き、しらけ、意味のなさについて考えるetcは人間を蝕む「虚無」
アメリカ・サンフランシスコで毎年行われている「マスターベータソン」というイベントで2年連続、持久力で優勝した日本人がいる(TENGAの佐藤雅信さん)。
9時間以上も自慰行為を続けての優勝体験を振り返り、人は6時間を超えると煩悩が消えると発言した。
最終的には「自分、なにやってんだろう」といったしらけが最大の敵だというコメントもしている。
本来、禁止されてでも(人によっては)やりたくて仕方がないはずの自慰行為。
でも、絶対にやめずにやり続けろとなったら、せいぜい数時間しか続かない。しかもそれが大会で世界一になるほどの記録……ということは、それ以下の人たちはもっと短い時間しかもたないのだ。
倫理観やら道徳やら綺麗事的な世間のマナー感覚やらでどれだけ悪い汚い醜いものとされ貶され禁止されるような欲望であっても、いざそれを全開にして好きなだけ発散しろと言われたらその程度。
それが人間なのだ。
(ただ、性欲を悪いと捉えるのは偏見でもあると思いますが、私は)
これが金の亡者とされる人が金目当てでおこなう仕事であっても、なんなら強盗などの犯罪であったとしても、「もっとやれ絶対にやめるな続けろ」と言われてしまうと人は長くはもたないものなのだ。
(変な論旨の流れかもしれませんが、だからこそ『休憩』って大事なんですね。ずーっと同じことをひたすら続けるのがベストパフォーマンスになるとは限らない)
要は、メンテナンス。
その時々の自分に適した心身霊魂のメンテナンスをできる能力。
たとえば私の例でいえば、いわば月並みに「仕事して生きるためのカネは稼いで、最低限の衣食住はソツなくクリアして健康に1日を送る」という基本的な能力は身につけ済みで苦もなく発揮できるようになった。けれどそれだけじゃ飽き・しらけという”虚無”が来るレベルというか能力値のランク?ゾーン?帯域?に要するに位置している。そこに到達できない人もいることを鑑みればハイスペックということになるのだろうが、ここで大事なのは他人との比較ではなく、その時点の本人にとってふさわしい諸々がつりあって整備されてないから虚無の忍び込む余地が生まれていると判断するべきだろう。
そこでどのように虚無を追い出すか、ATフィールドというべきもので遮断するか。
大雑把にいえば、生きる目標を見失っているからだろう。
あるいは、完全に生きる目標がないわけではないとしても、直近の日々を充実感をもって生きるための具体的な目標と、その目標達成に向けたモチベーションを恒常的に自然なものとして抱き続けるというマインドセットが確立されていないためにこうなっているとは言えそうだ。
さらに私事(わたくしごと)を言えば、「目標を設定してそこに向かってモチベーションを抱いて行動を継続して習慣化し能力を高めて期日までに無事&見事、達成する」というスタイル自体がオワコンだし、そういう世界観・世界線に自分を縛りつける形になってマイナスでもあるんじゃ……というのが時代の変化とともに感じ取れてきたというのが大きい。
べつにわかりやすくグダグダになったわけではないと思っている。
(こうして、有料でもなくアフィリエイトリンクを貼ってるわけでもない、完全ボランティアなブログをせっせと更新できてるくらいですし!)
ただ、時代の変化というか世界線の変化と新しい世界線での霊的摂理的なルール変更?と、そこにうまく合わせる生き方というのがまだ急すぎてデータもなくて相談できる相手もなくて自分一人で手探りすぎてなにもかもが不明確・不明瞭でうろたえ気味である、というのが率直なところだと分析している。
まぁこの話はいずれ、おいおい。
この記事のまとめとしては、飽きとかしらけ、何かを無意味だと思うのは、賢い大人になった証でもなんでもなく、虚無に蝕まれた病んだ良くない状態ですよ、ということです。