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コラム

人生の「一般教養」フェーズの終わり、そしてこれから

人生の50年は一般教養だった

人生を50年近く生きてきて、ふと気づいたことがある。これまでの人生は、まるで一般教養のようなものだったのではないか、と。

子どもが箸の持ち方を覚え、ご飯を一人で食べられるようになる。自転車に補助輪なしで乗れるようになる。そんな成長の積み重ねが、大人になってからの仕事や人間関係にもつながっている。会社での立ち回り方、仕事とプライベートの違い、友人と同僚との接し方の違い……。そういったものを経験し、学んできた。

それはまるで大学の1、2年次に一般教養科目を履修するようなものだった。専門分野に進む前の準備期間としての50年。そう考えると、今ようやく一般教養が終わったのだという感覚になっている。

一般教養の優秀な履修生として

自分では特別に優れた人間だとは思っていない。天才ではない。けれど、少なくとも一般教養の分野では平均以上の成績を収めたのではないかと思う。

会社員としてもうまくやれたし、独立しても問題なく生計を立てられた。法人経営もそれなりにこなせた。それは大したことではないと思っていたが、周りを見渡すと、そこにつまずく人は意外と多い。となると、自分は一般教養という土台をしっかり身につけられたのではないか、と改めて思う。

もちろん、50歳という年齢は一つの分岐点でもある。人生の終わりに差しかかっているとも言えるし、まだ折り返し地点とも言える。どちらにも解釈できるが、少なくとも私は「一般教養を終えた」と区切りをつけることにした。

もう「礼儀作法」を学ぶ段階ではない

一般教養が終わったのなら、これからは専攻の時間だ。例えば、礼儀を尽くすことの大切さや、人との付き合い方などはすでに学び終えた。これ以上、それを続ける必要はない。学ぶべき時期が終わったのだから、実践の段階に入るべきだろう。

画家が学校を卒業した後、数学の授業を受けなくなるように、私もこれからは「すべてを平均的にこなす」生き方をやめる。偏っていい。専門性を追求していい。むしろ、その方が自然なのではないか。

スピリチュアルの新たなステージへ

これまでスピリチュアルヒーラーとして活動し、多くの人に「生活に役立つスピリチュアル」を提供してきた。その結果、社会でうまくやれなかった人が、私の講座を通じて成長し、仕事で成功するようになった例もある。それは素晴らしい成果だし、やりがいのある仕事だった。

しかし、これからも同じことを続けるべきなのか? ただのカルチャーセンターのようなヒーリングスクールでいいのか? そう思い始めている。

私は今、次のステージに進もうとしている。具体的にどうなるかは分からない。何か確固たる着地点があるわけではない。ただ、ひとつ確かなことは、私はこれからあえて偏ることを選ぶということだ。

スピリチュアルの専門家として、より深い探求へ。一般教養の枠を超えた、より純粋で、より本質的な領域へ。

ここから先の人生は、専攻科目の時間である。

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