ある日突然、物事の本質が見えるようになる瞬間がある。それまでは、どれだけ知識を蓄えても、何も変わらない。
たとえば私は、若い頃に「デザイナーの世界では、衣服より建築、建築より都市景観(ランドスケープ)を手がける人の方が大きな存在だ」と聞いたことがある。しかし、その意味がまったく分からなかった。
ファッションデザイナーが展開する世界的ブランドの規模や利益は巨大で、「すごい!」と単純に思った。一方で、都市景観? なんか地味だし、そんなにすごいのか? とピンとこなかった。
しかし、自分が独立し、事業を立ち上げ、社会の仕組みや影響の大きさを実感する中で、次第にその言葉の意味が腑に落ちていった。直接デザイナー業界に詳しくなったわけではないが、「事業の対象が広がるほど影響力も増す」ということが、実体験を通じて理解できたのだ。
これは、異性を見る目にも通じるものがある。若い頃は、見た目や周囲の評判だけで判断しがちだが、成長するにつれて「本質」が見えてくる。それと同じように、視野が広がると、物事の価値や本当の重要性がわかるようになるのだ。
「アナウンサーになりたい」という夢が変化した理由
かつて、「アナウンサーになりたい」という強い思いがあった。若気の至りもあり、「アナウンサー」という肩書きに対する憧れや、思考停止したままの夢を抱えていた。しかし、視野が広がるにつれて、その夢に対する考え方が変わっていった。
たまたま放送100周年の年に、カリスマナレーター・木村きょうや氏の「放送100年の歴史」という講演を聴く機会があった。
そこでは、
・初期のラジオ放送は高価で、聴ける人が少なかったこと
・機器の性能も悪く、試行錯誤が続いていたこと
・初代アナウンサーは公募で、放送局がまだ存在しない中、一般企業から転職してきたこと
・定石のない時代にスポーツ実況が始まり、担当アナウンサーの創意工夫で成り立っていたこと
などが語られた。
何も知らなかった私は、「本気でアナウンサーを目指していたつもりが、実はただテレビの“アナウンサーアイドル(アナドル)”に憧れていただけだった」と気づいた。
あくまでも形式的な憧れとしての「型」を捨てて初めて見えてくる自分自身のクリエイティブな人生
その後、私はフリーで声優やナレーターの仕事を経験し、「自分はしょせんアナウンスメントのプロとなれば“量産型すごい人”止まりだな」と身の程を知った。
ただ、それと同時に、「私ならではの魅力?個性?はニュース読みアナウンスメントというよりは役者的な表現が活きる仕事でこそ発揮される」という確信も持った。
(これはある意味、正統派で勝負ができない人が邪道に走ってバラエティ読みで素っ頓狂な声を出していい気になるのと紙一重ではあると思うのだが)
つまり、今から局アナを目指す必要はなく、自分のスキルを活かせるフィールドで芸を磨く方が理にかなっていると分かったのだ。
もし、「アナウンサーになる」という肩書きに固執していたら、今の自分にはなれなかった。子供じみたこだわりを捨て、今の自分に開かれている道を選び、その中で成長し続けた結果、逆に「実質アナウンサー」的な声の仕事が増えてきたのだから。
挫折をプラスに変える難しさと、その価値
一般的には大人になって冷静に現実を見られるようになるというとそのニュアンスは「身の程を知る」とか「夢は叶わない」というネガティブな、実は真実ではない残念な思い込みで使われ、いわばその思い込みに呑まれてしまう(誤謬に陥る)ことをもってして「成長」と勘違いしがちな現状があると感じる。
一度なにかに挫折してひどく傷ついた人間が、その傷を癒やし(←実質ほとんどの人が一生、ちゃんと癒えることがないまま終わる……のに『平気だよ?べつに傷ついてないし』と思い込んでいる)、さらに真実としての可能性を含んだプラスの学び(例:あれこれ工夫すれば変化球的にその夢を叶えるのは可能である)を得るのは難しい。
しかし、これからの時代こそ、「既存の枠にとらわれず、自分なりのルートを見つけること」が重要になる。
新卒就職という決められた枠やそこでの募集要件、その枠での合格・不合格といった、とある会社のさらに一部の採用担当者程度の人間の思惑という小さな箱庭で決まるお芝居のような決め事を超えて、世の中全体とどうコミュニケーションを取るか。仕事は、そのルートのひとつに過ぎない。就職はさらにその中の小さな小道でしかないし、新卒就職となるとそのさらに小さな道の「狭き門」。
たしかに狭いし通りにくい(合格しにくい)難関企業は存在する……のだろうが、究極をいえばその企業に新卒で正社員として就職した立場を得ているかどうかは、自分が霊魂をもって受肉した存在としてこの宇宙全体と物理的・精神的・霊的etcのどのような交流をするかとは、直接は関係ないし、交流のための要件というわけでもない。
人生は、世界と呼応しながら進んでいく
ここで述べたことは、現実的にいえば「しょせん負け犬の遠吠え」と感じるかもしれない。
あくまでも現世的にビジネスの世界で、勤め先の社格や年収といった”ランキング”至上主義でだけ勝ち負けを論じる「箱庭」的思考回路しか持っていない人からしたらそうだろう。
ただ、その思考回路は真実なのか、本当に人間がこの世でなしうることのすべてをカバーした思想なのか(違いますよね?)。
私個人としては、おおかたの人が想像するであろう「ただの言い訳」の枠をはるかに超えて、本当に人間がその霊魂の営みとしての思考や意図という念の向け方、その方法としての行動etcが宇宙全体にまるで鐘のようにどう響き渡り共鳴するのか、その共鳴と共振がこの世界のすみずみのいろいろなところに良くも悪くも大きな影響を与えるのかを、霊視のみならず物理現実化しているか(ただの妄想ではないか)を含めて確認する旅路を十数年にわたって経験することができた。
こうしたスピリチュアルなワークを通じて、「個人の人生経験が、世界や宇宙とどう影響し合っているか」を見られたのは大きな収穫だった。
だからこそ、スピリチュアルな講座を提供しながら、現実社会におけるキャリアの成功を支援する事業にも力を入れている。
現状としては、講座の内容は整備するものの、受講生がその内容をしかと修得するには至らないことも多く、まだまだ頭を悩ませる日々ではあるのだが、
それはつまり、ここで私が書いたような、人間の思惑を超えて自分なりの一個人が何かを思ったり行動したりすることが(人間社会では誰にも振り向いてもらえず、わかりやすくお金が稼げたり名声につながったりしていないとしても)エネルギー的にも物理現実的にもちゃんと照応して大きな力を持っているとちゃんと実感して知るのが多くの人間にとってはどうやら難しいという目安でもあるのかもしれない。
そうなるとまぁ、この記事を読んだところで「ちょっと何いってるかわからない」が読者の率直な感想だろうか。
でも、だとしても。
近視眼的にならず、他人が決めた「勝ち負けの基準」に惑わされず、自分なりの成長を続けること。
いつか霊的に自分の生き様が宇宙とどうコミュっている形になっていたのかが観えるようになったとき、納得がいくものか、それとも俗世的な正論に思える誘惑(例:大企業に正社員として就職するのが『まとも』)に負けてしまったと思うか。
自分ではまだ観えないなら、それが観えていると信頼できるヒーラーに相談してみてもいいかもしれない。
(そのヒーラーの言い分に自分が依存したり騙されて服従する形になっていないかどうかを気をつけるのはいうまでもないとして)