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シュタイナー

秘教講義1 第1講

私たちが何者であり、何者であったか、そして何者になるのかを語る光は、この霊の闇から初めて生まれてくる

ルドルフ・シュタイナーの『秘教講義1』の第1講では、霊的探求者が霊界に参入する際に直面する課題と、それを克服するための心構えが語られています。特に、霊的認識を妨げる内的な障害として「三つの獣」が登場します。

三つの獣とその象徴:

1. 第一の獣(悪しき意志):
– 色:汚れた青色
– 感情: 恐怖
– 説明: 霊的創造力や認識への恐怖が意志の中に生み出され、この獣として現れます。克服するには、霊的認識への勇気が必要です。

2. 第二の獣(悪しき感情):
– 色:汚れた黄色
– 感情: 憎しみ・嘲笑
– 説明: 霊界の開示や認識への憎しみが感情の中に生じ、この獣として現れます。これは恐怖を隠すための嘲笑の態度を誘発します。克服には、認識への正しい情熱が求められます。

3. 第三の獣(悪しき思考):
– 色:汚れた赤色
– 感情: 疑惑・無気力
– 説明: 霊的な光や霊界への懐疑が思考の中に生じ、この獣として現れます。これは無気力を引き起こします。克服するには、霊的認識の創造力が必要です。

これらの獣は、霊的探求者が内面的に直面する課題を象徴しており、それぞれの克服には対応する美徳や心の姿勢が求められます。

シュタイナーは、これらの内的障害を乗り越えることで、霊的な深淵を越えるための「翼」を得ることができると説いています。

このように、第1講では、霊的探求の初期段階で直面する内的な障害と、それを克服するための指針が示されています。

これはさしずめ「スピリチュアル・ブートキャンプ」だな、と思った。

ドルナハのゲーテヌアムで行われたルドルフ・シュタイナーの一連の講義録である『秘教講義1』の第1講のさらに冒頭、詩の朗読とその解説で背筋が凍りつつ伸びる。

小難しい解釈をあえて避けるなら、「ちゃんと霊的な叡智を感じ取って信じられる人間になろうぜ」ということだろうか。

スピリチュアルな話はとかく、非科学的だ・うさんくさいといって敬遠され、現代の科学至上主義(というわりには科学をもてはやす人のほとんどは何かしらの科学で博士号を持っているわけでもない門外漢であることの面白さよ!)では否定される。そんなものはインチキだ、ありもしないデタラメだ、人を騙して金を巻き上げようとする詐欺だ、と勇ましく正義の味方を(易々と)気取る人には格好の題材だろう。

ではスピリチュアルはインチキなのか。

この記事の冒頭に述べた講義の要約にある「獣」は、インチキなスピリチュアルを信じた方がいいと人をそそのかすための脅しなのか。
つまり、「現代科学こそ真実であり正義」と豪語する(科学の分野で博士号を持っているわけでもない大多数の)人々は獣ではなくむしろ立派な人間なのか。
ここに書かれた状態を獣と捉え、「そうならないようにちゃんと霊的なことを信じよう」と思ってしまう人間の方が浅はかな愚か者で、カルトに呑まれた哀れなカモなのだろうか。

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