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コラム

弱さを盾にした時代の終焉  ― ノーブレス・オブリージュを“強者”に押し付ける構図が崩れるとき ―

「強い人が弱い人を助けるべき」という空気

これまでの日本社会では、「弱い人は守られるべきで、強い人はそれを助けるべき」という価値観が当たり前のように共有されてきた印象があります。
それ自体は人道的で優しい考え方ですが、残念ながらそこには“悪用される余地”もありました。


弱者ポジションの“おいしさ”に気づいた人々

本当に困っている人を助けることは大切です。
しかし、社会がその善意を前提に動くようになると、“弱ぶること”に旨味を感じる人たちが現れはじめました。

一見「助けが必要な人」のふりをして、実際には強くて優しそうな“都合のいい人”に依存し、うまく立ち回る。
むしろその“弱さ”を武器にして相手を支配しようとするような、いわば「弱者売り」の戦略が社会のあるあるとして浸透してしまったように思います。


時代は、もっとシビアで健全な方向へ

しかし、こうした構図は今、大きく崩れ始めています。

これからを生きる私たちは、もはや「弱ければ助けてもらえる」と信じていられるほど、ぬるい時代にはいません。
むしろ「弱いからといって甘えていられると思うな」「強いからといって無償で助けるのが当然だと思うな」と、時代そのものが語り始めているかのようです。

それはきっと、大変だけれど健全な流れ。
“歪み”を是正するための、いわば膿出しの期間に突入したのかもしれません。


人助けポルノという落とし穴

一方で、強い側にも問いが投げかけられています。
「本当にその助けは、相手のためになっているのか?」と。

実は自分の“善人欲”を満たすためだけに助けているのではないか?
利用されていると薄々気づいていながら、「助ける自分がかっこいい」という幻想に酔っているだけではないか?

善意であっても、それが相手を甘やかし、堕落させるものであれば、意味がありません。


「強い vs 弱い」で語れない関係性へ

いずれにしても、もはや「強い」「弱い」だけで関係性が決まるような時代は終わろうとしています。
“弱さ”は免罪符ではなくなり、“強さ”は奉仕義務ではなくなる。

これからの時代は、誰もが自分の足で立とうとし、支え合う関係性のなかで生きていくことが求められるのでしょう。

それはシビアだけれど、きっと健全で、フェアな世界の始まりです。

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