スピリチュアルを学ぶと、多くの人が「意識の拡大」を目指す。
視野が広がる。
物事の本質を見抜けるようになる。
霊的な尊さを感じられる。
そうした変化は一般的に「良いこと」とされ、意識の拡大こそが魂の成長であり、進化の証だと語られることが多い。
しかし、実際に意識が拡大したときに訪れるのは、単純な幸福や充実感ではない。
むしろ、以前のように小さなことに一喜一憂できなくなることで、生きる意味を見失うことすらある。
達観することで「人間らしさ」を失う
スピリチュアルな学びを深めると、自然と物事を俯瞰できるようになってくる。
この世界のすべては流転し、無常であり、執着しても無意味であることが分かってくる。
しかし、それが極まると、日常の些細な出来事に対する興味や情熱が薄れてしまう。
たとえば、かつては合コンでいかに相手を落とすかを全身全霊で考えていた人が、
「色恋なんて一時の欲にすぎない」
「魂の本質は性別を超えた存在だ」
「この人と結ばれようが、別れようが、それもまた宇宙の流れ」
と考え始めると、狩る側のエネルギーが消えてしまう。
金銭に対する価値観も同じだ。
「お金は人間が作り出した道具にすぎない」
「必要なときに必要なだけ入ってくる」
「所有という概念自体が人間のエゴの産物」
と悟ると、以前のようにガツガツ稼ごうという気持ちが湧きにくくなる。
その結果、何かを必死で手に入れようとする原動力が弱まり、社会的な成功や欲望への執着を手放してしまう。
「生きていても、死んでいても同じ」という感覚
こうした意識の拡大が進みすぎると、最終的に、生と死の境目すらどうでもよくなってしまう。
「どうせ魂は永遠に存在する」
「肉体は一時的な乗り物にすぎない」
「人間の営みは小さなドラマの繰り返しであり、本質ではない」
こうした考えが深まることで、日常の喜怒哀楽が希薄になり、動物としての“生きる衝動”を失っていく。
悟ることはできる。
しかし、それが幸福とは限らない。
「適度に俗っぽくいる」ことの大切さ
意識の拡大を目指すのは自由だが、「完全に達観しきること」が人生にとって最良の選択とは限らない。
少し俗っぽくてもいい。
欲を持つことは、生きるエネルギーに直結する。
金や異性、地位、名誉——それらに執着しすぎるのも問題だが、まったくの無欲になると、人は生きる意味を見出せなくなる。
だからこそ、意識の拡大を目指すなら、自分の中に「人間らしさ」を残すバランス感覚を持つことが大切だ。
・霊的な成長を意識しつつも、日常の小さな喜びを味わう
・人生の無常を理解しつつも、目の前の目標に情熱を注ぐ
・達観しつつも、人間関係に心を動かされる
そうしたバランスを取ることで、スピリチュアルな成長と現実の充実を両立できるのではないだろうか。