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コラム

批判的精神との折り合い:自己肯定への道のり

子どもの頃から抱えてきた”批判的な目”

私は物心ついたころから、常に物事を批判的に見る癖がありました。それは単なるあら探しや悪口ではなく、「もっと良くできるはずだ」という探究心や使命感に近いもので、いつも何かしらの可能性を模索し、改善点を探す姿勢を持っていたのです。

批判すること=嫌われること?

しかし、大人になるにつれて気づいていきました。批判的であるということは、多くの人にとって「嫌な存在」になりやすいという事実です。それでも私は、当時は「それはみんなが弱くて卑怯だからだ」と、どこかで信じていました。
社会を変えたかったし、誰もが見て見ぬふりをする”臭いもの”に目を向けて、立ち向かいたかった。

「正しさ」では変わらない世界への諦念と決断

でも、変わろうとしない人々の頑なさを前に、私は一度あきらめる決断をしました。それは自分のポリシーを捨てる、通用しないと認めるといった敗北というよりは、”その人たちの変わりたくない気持ちを尊重する”という選択でもありました。
また、自分がそうした人たちの影響を受けて腐らないために、そういう人たちとの間に適切な距離を置くという生き方を選んだのです。
(他人を腐る呼ばわりするのもなんですが、正直、私の観点からはそう見えるという個人の率直な感想です)

ホワイト社会の中で、私が学んだ現実

近年、「ホワイトな社会」……つまり何でも笑顔で肯定し、批判を避ける風潮が強まってきました。そこで私もさらに学んだというか、表向きは今の時流に乗っかって問題なく馴染んでるふうでいた方が無難だなという実感値を得ました。
この社会の大多数は、真実を見る勇気を持たない人、ずるさに甘んじる人、何も変えようとしない人であふれている。
だからといって面と向かってその人たちを批判すると「失礼だ」とか「誹謗中傷だ」と、どんなに事実そのものを指摘した場合でもこちらが貶されて悪者にされる力学がどうやら強く働く(ようだ)。
だからこそ、言ってもわからない&よく考えたらどうしてもその人を諭したい愛情を自分側でも持っていない赤の他人としての相手にいちいち深く関わるのは時間と労力の浪費ということになるのだと。
残念ながら寿命という時間は有限なわけだし、やむなく人を選別するしかないというか。どんな人とどのような関係性を築いていくかを優先順位つけて取捨選択しないと自分自身の人生が大勢の人が行き交う社会の荒波というカオスに巻き込まれてぐちゃぐちゃのバラバラになってしまうことも年の功でか、気づくようになっていきました。
そして、多くの薄い縁の人たちとはちゃんとした想いの交流が難しいからこそ、自分と同じ方向を見て同等以上の知性なり価値観なり美徳なりを持っている”洗練された志ある人々”とだけつながっていくことの重要性に気づきました。
(これは選民思想のようで気が引けるものの、知識やIQ、EQなどなんでもいいですが能力の指標であらわされるスペックが多少以上には釣り合っていないと実際、会話から何からちぐはぐになってしまいマトモな交流や意思のやり取り、それが発展して起きる建設的な議論やそれを通じて人間性などを磨いていくのは難しいと感じています。それはひとえに、私が万能の完璧ではない能力値だからこそ持っている限界ゆえなのですが、実際そういう限界を現時点では持っている以上、私の手に負えない人みんなを平等に大切にするとかどこまでも誠実に深く関わるなんて実質、無理なんです。だから仕方なく、やむなくですが、現時点では少なくとも、限りある自分の能力の範囲内でどうにかできる物事を優先順位つけて、高いものからキャパオーバーにならない範囲の順位までしか手をつけられないし、それは致し方ないと割り切ることにしました)

批判的精神を”隠す”という成熟

そうして老獪(ろうかい)というべきか単に卑怯な大人に成り下がっただけなのか、いずれにせよ痛い目に遭っていろいろ学んだ(もしくは萎縮した)今の私は、自分の批判的な精神をむやみに出すことはしません。
それは自分自身を偽るわけではなく、”わかる人だけがわかる場所”で全開にするという選択。
たとえば他人の目を気にすることなく自分が真剣に自分自身の本音と向き合ってつくる表現物の創作といった領域で、その精神を昇華させていけばいいのです。
批判的精神を持ちながらも、それを創造的な力に変換していくことの大切さを理解できるようになりました。

40代でようやく手に入れた”折り合い”

こうして七転八倒の試行錯誤を経た40代になって、ようやく自分の”本心を殺さずに社会と折り合いをつける”バランスが取れるようになってきました。
日常でいちいち、自分の勝手な理想と違う人や社会の有り様などに批判を口先などだけで表明していても、煙たがられるだけですし、それだけでは物理現実としては何も良くなっていきません。
でも、先ほど述べたようにたとえば創作表現の場や、あくまで自分自身の範疇でどうにでもできること(例:自室の家具の配置など)では、誰にも遠慮せず思う存分その精神を発揮できることに気づきました。批判的精神は否定すべきものではなく、私自身の一部として認め、適切に活かしていけばいいのだと。
適切に活かせる場で存分に自分の批判的思考を発揮してそれを自分でもメタ認知的に認め、それこそ「部屋が汚い」という批判的思考の産物として行動を起こした結果の綺麗に整頓され掃除が行き届いた部屋を見ることで、自分の批判的精神が役に立つし上手く使うこともできている自己肯定感UPにもなっていいことづくめ。

これからは”やんちゃに自由に”生きる

そんなこんなで、もうすぐ50代。若づくりを気取るわけではありませんが、実質、以前の時代より50歳って若いよなと感じます。
人生100年時代というならば、後半戦がようやくスタートしたというところでしょうか。
織田信長の時代には人生50年と歌われ、たしか昭和24年の時点でも日本人男性の平均寿命は47歳(今の私だ!)だった気がするのでそこを基準にすると呑気すぎるのかもしれませんが、まぁいいや。半分過ぎる前に気づければ御の字よ。
これからは、誰にもチャチャを入れられないところで、自分の批判的精神を存分に解放しつつ(≒それができる場を整備して活動を軌道に乗せた上で)、なにかとアレな人も多い俗世間であっても年の功ゆえの手練手管で何不自由なく不都合なく上手に世渡りしながら、自由にのびのびと生きていきたいと思っています。
それが今の私が考える、私にとっての健やかで創造的な人生です。

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